「パーティジョイ」でデビューのボードゲーム界のレジェンド、20年ぶり復帰から得た新たな目標とは

レジェンドの域に達したボードゲームクリエイター、野村紹夫氏(61)にとって2023年は新たな境地に到達した1年だった。野村氏は1980年代から90年代に大ヒットしたボードゲームシリーズ「パーティジョイ」でデビューし、90年代からはゲームボーイ、スーパーファミコン、携帯iモードゲームの開発にも取り組んだ。2015年には約20年ぶりとなるボードゲーム制作に復帰。そして昨年「これだけの要素を一つのゲームに入れられたのは、自分でも驚きです」と評価する「wyEBIYA THE BOARD GAME」を完成させた。その歩みと現在の夢を聞いた。

ボードゲームでDX店舗運営を学ぶ

「wyEBIYA―」はデータを活用するDX店舗運営を学ぶために開発された。三重・伊勢神宮前の老舗・ゑびや大食堂から分社化された、来客予測データに特化したシステム開発会社EBILABからの注文に応えた。伊勢神宮を起点としたマップを周回しながら商売を行い、2年間のゲーム時間で集めた資金で勝敗をつける。季節、販売、原材料、在庫管理、人員計画、出納管理、給与、決算、資金面、商品面、販売、人材の課題など、店舗経営で生じるマネジメントを体験。コマを進めながら発生するイベント(季節、繁忙期、在庫切れ、離職など)を通して利益を追求する。複雑かつ現実のビジネスに即したゲームシステムが構築された。

野村氏は「EBILABが行うセミナーにも使用されるものなので、現実の商売で経営者が直面するジレンマを再現することを目指しました。ルールを難しいと感じるのは最初だけで、すぐに慣れますよ」と手応えを口にし、「これだけの要素を一つのゲームに入れられたのは、自分でも驚きです」と続けた。昨年3月にクラウドファウンディングで販売が行われ、同7月から製品を発送。オンラインショップ・wyEBIYAでも販売が開始された。

DX(デジタル・トランスフォーメーション)はデジタルを業務効率化だけではなく、競争で優位に立つ価値を創出し、総合的な生産性向上を目指すもの。小田島春樹社長はDX導入でゑびや大食堂を経営難から立て直し、関連会社EBILABを立ち上げ、そのノウハウを広げることを目指している。

春と冬に出展するクリエイターEXPOで小田島氏からオファーを受け、一昨年春からDX経営のボードゲーム化に取り組んだ。都内から伊勢に数回出向いた他はオンライン会議で開発を進めた。「社員同士で試しに遊んでもらった際に面白いと言ってもらいましたが、言葉とは裏腹にどうも面白くなさそうな表情だったので、自分の判断でシステムを作り直したこともありました」と振り返った。

野村紹夫氏の新作「wyEBIYA THE BOARD GAME」

野村氏は1962年、東京で生まれた。幼少期を足立区で過ごし、小学4年生で埼玉県越谷市に移った。父はグラフィックデザイナー、版下制作者だった。「欲しいものは自分で作れ」という教育方針だった。小3で「人生ゲーム」「バンカース」をモチーフにすごろくを自作。級友の評判が高く喜びを感じた。高校受験時には、問題集の得点に応じて宿場町を進む「東海道五十三次ゲーム」を思いつき、ゲーム感覚で勉強を進め合格。この体験記は旺文社の学習雑誌に応募して掲載されたという。

就職からパーティジョイ制作の道へ

専門学校を経て1984年に印刷会社のデザイナーとして就職。バンダイからパーティジョイ制作を注文され「キン肉マン・地獄のタイトルマッチ」でデビューした。おおらかな時代でゲーム内容は一任されたものの、先輩デザイナーの助力を受けたことが納得できず、2作目の「日本全国ミケ猫トマトの配達屋さん」は単独で制作。しかし3作目の「モンスター学園」はスランプに陥り、同じ先輩の手を借りて完成させたが、やはり納得ができず間髪入れず4作目「ステップジュン」を単独で完成させた。若者らしい負けじ魂を隠さない時期だった。

そんな若気の至りが軋轢も生んだ。デビュー作発表後のことだ。「東京おもちゃショー」のバンダイブースで説明要員に駆り出された後、同行した先輩から「野村君はボードゲームに向かない」と言われ、ゲーム担当から外された。「先輩に『おもちゃショー』の感想を聞かれ、『特に見るべき商品はなかった』と答えたのがまずかったんじゃないか」と述懐した。

そんな危機を救ったのも、パーティジョイだった。シリーズはヒットし、多数の制作依頼が届いた。先輩だけでは手が足りなくなり、駆り出された。「絶対に成功させる」と強い決意を持って取り組んだのが「日本全国ミケ猫トマトの配達屋さん」。先輩からサポートが必要かと声をかけられたが断り、独力で完成させた。社内外で評判が良く、現在もシリーズの名作として挙げられる代表作となった。「背水の陣で臨んで結果を出せた貴重な経験で、おかげでいまだにこのゲームが語られている。先輩は以後一切干渉してこなくなり、対等な『ライバル』として良好な関係が続いた」と懐かしんだ。

ボードゲーム制作に取り組みながら、企画デザイン室の室長も任されたが1989年秋に退社。バンダイの元パーティジョイ担当者が独立して立ち上げた企画会社にヘッドハンティングされ、転職した。

野村紹夫氏が制作したパーティジョイシリーズ名作「日本全国ミケ猫トマトの配達屋さん」
野村紹夫氏は「パーティジョイ」でキン肉マンを度々ゲーム化した

エピックソニーのファミコンソフトを企画開発する仕事が多かったという。社長から「ボードゲームを作れるんだから、ロールプレイングゲーム(RPG)くらいできるだろう」と言われ、ゲームボーイのアクションRPGを任された。初挑戦でうまくいく訳もなかった。「さんざん苦労しましたが、プログラムの会社がポケモン開発前の『ゲームフリーク』で、いろいろ助けてもらいました。だいたい出来上がってきたところで、社長から『全部やり直せ』と掌返しをされ、結局1年くらい掛かって完成。任天堂にゲームROMを納め、印刷物の校正刷りまできたところで、僕の聞いたところでは『任天堂の意向で発売中止』になりました」と残念そうに振り返った。

結局、同社でボードゲームやカードゲームの制作を行うも、会社が解散することになり、真っ先に解雇されることになった。退職した1991年春以降は、フリーランスで活動。実績はあるだけに、ボードゲーム、コンピューターゲームゲーム、グラフィックデザインの仕事が舞い込んだ。1995年にバンダイの得意先のデザイン会社に入り、ゲームづくりに没頭した。ボードゲームやコンピューターゲームに加えて、iモード「ドコでも遊べガス」からはネットワークゲームの企画開発・運営業務にも取り組んだ。やがてデジタルゲームへの苦手意識は克服した。

「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のボードゲームを制作した際は「どういうテーマのゲームにすべきか意見が対立し、バンダイの担当者と深夜3時くらいまで激論しました。その結果『久々に良い議論をしました。この際だから、2つとも作りましょう』ということで、担当者が求めるゲームと私が主張するゲームを両方作ることに。これがバンダイのために作った今のところ最後のボードゲームになりました」と思い返した。

父の死がボドゲ復帰のきっかけに

バンダイから「パンダイネットワークス」(現バンダイナムコ・エンターテインメント)が独立し、主な取引先になった。デジタルやオンラインが主戦場となり、ボードゲーム制作からは距離を置いた。そして現場を離れ管理職に就くことを打診されたことを機に、取引先との関係を維持して独立。2005年5月にルートイレブン社を創立した。

バンダイネットワークスから社名が変わったバンダイナムコゲームスの仕事を中心に受けた。ゲーム企画開発に限らず、サイト運営やバックシステム用のマニュアル制作等も行った。他にも携帯用ゲームや、ネットワークゲーム等の企画開発の仕事を不定期に受けた。

それからしばらくして、パーティジョイが再び注目され、過去作品「ミケ猫トマトの配達屋さん」の取材を受けたことをきっかけに、同人ボードゲーム界との交流が始まった。刺激を受け、ボードゲームを再び制作したい、と意欲が芽生えた。

そんな中、2015年に「欲しいものは自分で作れ」と教わった父が死去。長男として諸事に直面する中で、初の自社製品ボードゲーム「Air Alliance」のルールがまとまった。社業復帰後、ドイツに出展し、ボードゲーム制作への本格復帰を果たした。

父の言葉から生まれた信念がある。駆け出しの頃だった。ゲーム作りを「それは仕事なのか?」と問われた。遊んでいるだけでは?趣味では?という含みだった。野村氏は父の問いかけを、次のように消化した。

「仕事は辛いもの、楽しいことは仕事じゃない、と思われがちな時代でした。自分が作るゲームを子供達が遊ぶ。いじめっ子はわがままにルールをねじ曲げて勝つかもしれない。でもきっと楽しくない。ルールを守って正々堂々と競った結果が楽しいんだと知る。ルールを守って競い合う楽しさ、ケンカではなくゲームという土俵で戦う楽しさを体験した子供達がやがて大人になり、社会を回していけば、きっと少しずつ世の中が楽しくなるだろう。そのためのツールを自分は作っている。仕事とは本来〝社会をちょっぴり幸せにする〟ことを言うのだから、これこそが自分の『仕事』なのだ…。自分の中でそう定義づけられてから、仕事に迷いがなくなり、求められる限りずっとゲームを作り続けようと思いました」

しかし、ボードゲーム制作に復帰後しばらくして、会社存続の危機に陥った。売上の大半を占めていたデジタル・ネットワーク関係の契約が次々に途絶え、売上がゼロになった。起死回生を狙い「クリエイターEXPO」への出展を開始。「ボードゲーム大抵なんでも創れます」を掲げて、販促用ボードゲームビジネスで打開を図った。得意のボードゲームでダメなら仕方ない、と開き直った。「同人ゲームをつくる人はたくさんいますが、企業の注文に応じて、ゲームを商品化するデザイナーは日本で数少ない」という自負が支えだった。結果、菓子のおまけゲームをはじめ、多くのボードゲーム企画業務を受注するようになり会社は生き残った。バンダイナムコ・エンターテインメントからの業務受注、各社からのボードゲーム企画開発業務が二本柱になった。

幼少時に父から教わったゲームを自作する喜び、これまで培った技術が現在の支えとなっている野村紹夫氏。現在も注文を多く抱えており「この年齢でまだ新しいゲームを作れる現場にいること、社会からゲーム作りを求められていることがうれしい」とやりがいを感じている。「楽しく悩めること。悩むことが楽しいこと」と語ったボードゲームの魅力。2024年は「受注もいいですが、久しぶりにオリジナルボードゲームを作りたくなっています。初めてゲームを作って友達から褒められたように、思う存分、自分の好きなようにね。たくさんの人に遊んでもらって、楽しく悩んでもらいたい」。大きな夢を胸に、今年も前に進んでいく。

野村紹夫氏が関わったスーパーファミコンなどのコンピューターゲーム
野村紹夫氏が関わったデジタル玩具

(よろず~ニュース・山本 鋼平)

© 株式会社神戸新聞社