新紙幣の顔ととちぎ 渋沢栄一 県内各地に思想今なお

日光東照宮の表参道にある社号標。渋沢が「東照宮」の文字を揮ごうした=2023年12月、日光市山内

 2024年は、7月3日に新紙幣が発行される。紙幣デザインの刷新は04年以来、約20年ぶり。その“顔”となるのは1万円札が渋沢栄一(しぶさわえいいち)、5千円札が津田梅子(つだうめこ)、千円札が北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)。いずれも近代日本を語る上で欠かせない人物だが、本県とはどのような関わりがあるのか。ゆかりの場所や人物を探して訪ね、3人の足跡をたどった。

 生涯で500もの企業の設立や運営に関わったとされる渋沢栄一(しぶさわえいいち)(1840~1931年)は、後にJR日光線となる鉄道の敷設に携わるなど県内にも多くの足跡を残している。

 元幕臣でもあり、徳川家康(とくがわいえやす)の300回忌に当たる1915(大正4)年の日光東照宮300年大祭では、事業を主催する奉斎会の会長を務めた。

 真岡市柳林には、かつて渋沢一族が経営した「柳林(りゅうりん)農社」があった。養蚕や製茶を目的として1874(明治7)年に設立した。同市内で最初の株式会社だったとされる。渋沢は出資者の一人だった。

 現在、跡地にはプラスチック部品製造「ホンデン製作所」が本社と工場を構える。秋にモミジやイチョウが鮮やかに彩る敷地内の庭には、渋沢が植樹したと伝わるシダレザクラがあり、毎年桜の時季に一般公開している。

 同社の斉藤敏彦(さいとうとしひこ)社長(59)は「歴史ある場所を大切に残していきたい」と話す。渋沢に関する本の市内小中学校への寄贈などにも取り組んでいる。

 渋沢は、企業活動の根底に道徳が欠かせないと説いた。「長く社会に貢献できる会社でありたい」と願う斉藤社長。柳林農社は不況などの影響を受け、13年余りで廃業したが、渋沢の思想は受け継がれている。

 ■渋沢栄一 1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれた。幕末に幕臣として仕え、明治維新後は新政府で働いた。その後、実業家へ転身。73(明治6)年設立の第一国立銀行(現みずほ銀行)など数々の企業に携わり、「近代日本経済の父」と称される。社会公共事業や国際親善にも力を注いだ。

渋沢が植樹したと伝わるシダレザクラを見上げる斉藤社長=2023年12月、真岡市柳林
渋沢栄一(国立印刷局ホームページから)

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