新紙幣の顔ととちぎ 津田梅子 大学創設協力者、那須塩原に眠る

女子英学塾を開校した津田(左端)と、大山(右端)ら協力者(津田塾大提供)

 2024年は、7月3日に新紙幣が発行される。紙幣デザインの刷新は04年以来、約20年ぶり。その“顔”となるのは1万円札が渋沢栄一(しぶさわえいいち)、5千円札が津田梅子(つだうめこ)、千円札が北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)。いずれも近代日本を語る上で欠かせない人物だが、本県とはどのような関わりがあるのか。ゆかりの場所や人物を探して訪ね、3人の足跡をたどった。

 津田塾大の礎を築いた津田梅子(つだうめこ)(1864~1929年)。同大同窓会の支部は国内25カ所、海外8カ所と幅広く、栃木支部は1980(昭和55)年に発足した。現在、約360人が所属する。

 同支部の小林明子(こばやしあきこ)支部長(66)は「自分で立って生きていく、自立した女性として育んでもらった」と母校への感謝を口にする。自分が得たものを次世代に受け継ぐ「津田スピリット」を胸に、活躍する卒業生は多いという。

 津田は1900(明治33)年、同大の前身となる女子英学塾を創設した。協力者の一人が大山捨松(おおやますてまつ)で、大山の墓は那須塩原市下永田1丁目にある。明治時代の元勲で夫の巌(いわお)らと共に眠る。

 大山(1860~1919年)は幼少期、米国に留学した。その時、一緒だったのが津田だった。帰国後も交流は続き、大山が鹿鳴館で日本初のチャリティーバザーを開いた際、津田が手伝うなどした。同塾創設時には大山が運営に参加、その後は同窓会長なども務めた。

 小林支部長は「(新紙幣を機に)津田先生や津田塾大の歴史、大学を支えた協力者たちを知ってもらえればうれしい」と話した。

 ■津田梅子 東京都生まれ。1871(明治4)年、日本初の女子留学生5人の一人として渡米した。最年少だった。11年後に帰国した後、再度米国に留学して日本女性のための奨学金制度を設立。私立女子高等教育の先駆的機関だった女子英学塾(現津田塾大)では、英語教育や個性を尊重する教育に努めた。

津田梅子(国立印刷局ホームページから)

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