昼食を共にしようと待ち合わせた日光市内のファミレスに、青年が姿を見せた。秋だとはまだピンと来ないほど暖かい昨年10月中旬。
「仕事は楽しいというか、楽しくなるようにしてますよ」
夜勤明けで眠い目をこすりながら、近況について話し始めた。
一生(かずき)さん、25歳。県北にある食品製造販売会社の工場で、原料供給の現場を任されている。県立高校を卒業し、就職して7年目。昨年係長に昇進した期待の若手社員だ。
中学生だった10年前に、子どもの貧困の実相を追った連載「希望って何ですか」に匿名で登場してもらった。以来、節目節目での交流が続いている。
現在は会社からほど近い場所にあるアパートに一人で暮らす一生さん。「彼女はできた?」と問うと、「今は仕事が恋人。というか仕事だらけです」と目尻を下げ、いたずらっぽい笑みで返してきた。人懐っこい柔和な雰囲気は、初めて会った頃から変わらない。
でも、中学1年生の春まで、一生さんの暮らしはとても苦しいものだった。現在の暮らしぶりなど全く想像できないくらいに。
「水道とガスが止まることが一番つらかった。トイレ、風呂が使えない。洗濯もできないから」
小、中学生当時、母親、兄、妹と県北のアパートで暮らしていた一生さんが振り返る。
一家は生活保護を受給して生活していたが、母親は金銭管理と片付けが苦手。月十数万円の保護費は、滞納した家賃の支払いなどですぐに消え、光熱費にまで回らなかった。
◇ ◇
玄関の扉を開けると、脱ぎ捨てられた衣服が山積みされ床が見えない。靴を履いたまま、奥にある居間まで進んだ。
毎日同じ服を学校に着てはいけない。かといって、洗濯された服があるわけでもない。
小学生の頃は、いつ洗濯されたのか覚えのない服に幾度となく袖を通すと、「大丈夫かな?」と臭いを嗅いでから、恐る恐る家を出た。
食事は学校給食と、午後10時くらいに帰宅する母親が買ってきたコンビニ弁当。学校のない土日は夜1食だけ。夏休みや冬休みになると、つらさが増した。
中学校に入ると、登校班になじめない5歳年下の妹を小学校に送り届けてから、自宅を挟み反対方向にある中学校まで延べ30分以上かけて通った。「面倒くさい」という考えが頭をよぎりながらも、給食を楽しみにしていたから学校は休まなかった。
衣食住すらままならない暮らし。でも、「友達から何か言われたことはない」という。それは「今思えば、周りに知られたくなくて無意識にそう振る舞っていた」から。
明るくしてはいたが、どこか、息を潜めるように生きていた。
◇ ◇
子どもながらに「普通じゃないんじゃないか」と感じていた一生さん。一方で、「うちはうち」と諦めていた。
「当たり前じゃない」と気が付いたのは中学1年生の時。日光市内のNPO法人「だいじょうぶ」代表の畠山由美(はたけやまゆみ)さん(62)に出会ってから。
畠山さんは、一生さんや妹をはじめ母親にも寄り添い、ずっと支援してくれた。
一生さんは感謝を込めてこう話す。
「自分も、母親のことも変えてくれた。人生を変えてくれたのかもしれない」
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私たち大人とは違い、子どもの10年間は過ごし方によって未来を劇的に変える。「将来が生まれ育った環境によって左右されることのないよう、健やかに育成される環境を整備する」ことなどを目的とした子どもの貧困対策推進法施行から10年。子ども期に支援者と出会い、大人になった若者の姿を通じ、育ちを支える意味と課題をあらためて考える。