出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・財閥や政治家に対する不満が高まる昭和初期の時代、鮎川の「大衆持ち株会社」が台頭。
・零細な株主を資本家とし、より多くの国民が豊かになることを目標としたシステム。
・自動車業界への参入こそ日本が豊かになる手段と考えた鮎川に商工省課長岸信介は感銘を受けた。
日産コンツェルン率いる鮎川義介はなぜ、戦前に人気があったのでしょうか。その経営手法は、旧来型の財閥とは一線を画していたからです。鮎川は「大衆持ち株会社」というやり方を打ち出していました。三井や三菱といった当時の財閥の株主は、少数の特定の家族でした。つまり、三菱の株式に出資するものは岩崎3家、三井なら三井11家…。会社が儲かれば、出資者である特定の家族の富が蓄積しました。
一方の日産には、5万もの株主が存在したのです。鮎川自身は、株を1株も持たず、幅広く資金を調達したのです。会社の業績が改善すれば、株主への配当増につながるのです。5万人の人々の富を豊かにするため、企業業績の向上を狙っていました。その手法は、貧富の差が拡大し、財閥や政治家に対する不満が高まる昭和初期の時代にあっていました。
鮎川は「過去何十年も、日本の産業発展に華々しく貢献した財閥も、今まで通りの役目を果たすことができなくなるだろう。そこで、大衆持ち株会社が時代の要望に応えた大企業の形態だ」と考えたのです。「銀行から融資を受けるのではなく、自分は、株主を銀行代わりにしたい。しかも、零細な株主を資本家にしたい」。
この鮎川義介に関心を抱いたのが、岸信介です。商工省の課長で、革新官僚とも呼ばれていました。岸信介はある日、商工省を出て、日比谷の日産館に向かいました。
岸にとっては同郷の出世頭の鮎川。噂は聞いていたが、じっくり話し込むのは初めてでした。巨大な建物の前に立つとさすがに緊張しました。
「日産館」という大きな看板。出迎えの秘書が、玄関に通しました。エレベーターに乗りました。5階の応接室が鮎川の部屋でした。ドアをノックしました。「どうぞ」という声。そこには、鮎川がテーブルの椅子に腰かけていたのです。短く刈り込まれた髪には白髪が混じっていました。贅肉のない引き締まった体。眼光は鋭い。
「鮎川さん、実はご相談があります。鮎川さんが手がけている自動車産業の育成を我々もぜひ、応援したい。日本企業はぜひ、国産車開発に全力投球すべきです」。
三井や三菱、住友といった旧来の財閥は、自動車産業への参入をためらっていました。今更、フォードやGMに対抗しても、勝てないと踏んでいたのです。
軍艦や大砲を製造すれば、政府が買ってくれるかもしれないが、自動車は国民が対象。旧来型の財閥は、本当に大衆向けに販売する自信がなかったのです。それに、自動車は、巨額の設備投資を伴って大量生産しなければ採算がとれないのです。4、5年無配を覚悟しなければならない。
岸は日ごろの考えを鮎川にぶつけました。それを聞いた鮎川はおもむろに口を開きました。
「日本国民はすぐに、自動車を買えるほど豊かになる。早急に自動車産業を日本に浸透させることが重要だ」。
「自動車の大量生産は可能でしょうか」。岸は尋ねました。
それに対し、鮎川は踏み込んだ発言をしました。
「私は若い時、アメリカで職工として2年生活した経験から言えるのは、日本人は西洋人に比べ、体力や腕力は劣るが、手先は器用だし、頭も負けていない。神さまは公平だ。日本は領土や資源は恵まれていないが、工業製品を作るための人的資源は豊富だ。原料や材料を輸入して、手先の器用な日本人が工業製品を輸出する。これこそが日本が生き残る道です。特に、自動車産業は、将来の産業の担い手になる。それなのに、日本が参入できないのは、はなはだ遺憾だね」。
さらに、語気を強めました。
「日本で早急に自動車を普及させるためには、アメリカの技術を取り入れ、日本に自動車産業を根付かせればいいじゃないですか」。
この言葉を聞いて岸は、我が意を得たりとばかりに膝を打った。
「我が商工省も、鮎川さんのやり方には賛成しています。全面的に支援します。うちの大臣の町田忠治さんも自由貿易論者で、外資との提携はよろしいと申しています」。
それに対し鮎川は言葉を続けた。
「資本を十分に投入し、適切な指導と訓練が行われれば、日本人が日本で自動車工業を築けるだろう。そのために、アメリカから専門家の皆様をお招きしました。私はアメリカの人や会社と密接に協調して、新事業を始めたい。いささか遠大な望みかもしれませんが、新会社を通じて太平洋の両岸に位置する二つの国、日本とアメリカの民の相互理解を促進したい」。
鮎川は岸に、自動車産業への参入に意欲を持った経緯を語りました。
トップ写真:横浜で製造された国産車「ダットサン」に乗る秩父宮雍仁親王(本文とは関係ありません)出典:Bettmann / GettyImages