緊急発売体制!ビリー・ジョエル「イノセント・マン」前作からわずか10ヶ月でリリース!  ビリー・ジョエルの名盤「イノセント・マン」、日本発売までの仰天エピソード

ビリー・ジョエルの大きなケジメ、「ナイロン・カーテン」

私はCBS・ソニーの洋楽セクションで、80年代のビリー・ジョエルを担当していました。前任者の後を受け、1982年の『ナイロン・カーテン』から89年の『ストーム・フロント』まで、現場のディレクターとして商品を制作し、いかに日本で売っていくのか、をミッションに仕事をしていました。

アルバム『ナイロン・カーテン』の制作前後に、ビリーは長年連れそったマネージャーでもあった妻と離婚問題が具体化。しかも自分はバイク事故で長期入院。そんな状況の中、アメリカの病巣とも言えるベトナム戦争後遺症をテーマに、自身初となる社会的メッセージ溢れるアルバムを作りました。本人も語っていましたが、『ナイロン・カーテン』の発表は人生とアーティストキャリアの大きなケジメだったのです。

そして『イノセント・マン』の発売に繋がるのですが、なんと『ナイロン・カーテン』発売の10カ月後、つまり1983年の7月にマスターテープが届いたのです。ビリー・ジョエルほどのスーパーアーティストが、1年以内に新譜を発表する事は、奇跡にも近いほど稀な出来事でした。当初からこの83年期には彼の新譜は期待されてなかったわけですし、年間バジェットを達成しなければならない制作部としては大歓迎です!

奇跡! そこから1年も経たずにリリースされたアルバムの背景は?

ビリーはへそ曲がりな性格を持っており、メディアやファンが勝手にイメージをもつと、わざとそれを壊そうとします。とはいえ、極めて自分に正直な人で、アルバムを噛み砕いていくと、そのときの彼の心をうかがい知る事ができるというものです。

『ナイロン・カーテン』による、ジャーナリスティック・アーティストのイメージを一刻も早く消したかったという事もあったはずですが、前妻との離婚も正式に成立。そして当代きっての人気モデル、クリスティ・ブリンクリーとの出会い。ビリー・ジョエルを取り巻く環境は一転しています。

人生をリセットしたビリーにしてみれば、プレッシャーからも解放され、思う存分に自身のルーツに逆らう事なく自由に気楽に作ったというわけです。ビリーはある時語っていましたが、“天からメロディが降ってくるなんてあり得ない。締切に追い込まれて頭絞って初めて曲が浮かぶよ” と。そのビリーがそれも猛スピードで作り上げたのです。喜びに溢れかえっている内容でした。彼女の名前をタイトルにした歌まで作っちゃう訳ですから、どれだけ喜びの絶頂にあったか分かりますね。

レコード会社は緊急発売体制、新譜の受注活動は音源なしで!

そしてディレクターの動きです。今回は特に流通サイドの流れを書いてみたいと思います。

『イノセント・マン』発売の情報が入ると、もちろん広告ページの押さえなどありますが、売り上げに直結する営業部隊が真っ先に動きます。この時代の商品は100%店頭で販売されています。営業には新譜受注という最重要な業務があり、お店から注文をとりつける必要があります。これは時系列的には商品製作よりも先にある作業です。

新譜受注プラス、バックオーダーが会社の売り上げですから、初動でどれだけの枚数がお店に入っているかという事はレコード会社にとってのライフラインでもありました。発売日の大体2ヶ月前に受注を開始するのですが、情報の入手次第では発売日の直前ということもありました。音楽の商品といえども、実績あるアーティストの場合は、洋邦限らず、新譜の音を待たずに行われるものです。叱られそうですが、受注資料も推測で書く時もありました。

タワーレコードは敵、ハンディキャップを背負いながらの輸入盤対策

1980年代、レコード会社の洋楽セクションにとって最大の問題は “輸入盤” です。この頃の『タワーレコード』は敵でした。国内盤より1,000円ほど安い販売価格ですし、ビリー・ジョエルともなると本国発売から数日後には大量に入荷されます。なのでこちらも最短の製造工程を取っています。マスターテープやジャケットのフィルムが到着して、ディレクターが帯の原稿や解説対訳などを3日で入稿して3週間後に商品として完成させます。とはいえ、すぐには店頭に並べる事ができない、という流通事情もありました。

社内はいくらでもスピードアップは可能でしたが、卸の流通問題だけは如何ともしがたい状況でした。当時メーカーと直接契約していた特約店と呼ばれる小売店以外は『星光堂』など卸の取り扱いになっています。会社によって差はありますが、平均すると業界全体の45%ぐらいでしょうか。

レコードの価格は再販制度で守られ日本全国同じ定価ですし、発売日も同じ日に全国一斉は絶対ルールでした。特に、輸入盤店がある東京や大阪の都市部を先行発売させることはならず、北海道の根室や沖縄宮古島に行き渡るまで待たねばならいのです。これで1週間は待つ事になります。そういったハンデを背負いながら輸入盤と競争していました。

ポップスの宝箱、邦題のヒントは60年代の洋楽ドーナツ盤から

ディレクターとして、『イノセント・マン』の音源を初めて聴いた時から、およそ3日ぐらいの限られた時間の中で、アルバム収録曲の邦題を決定し、帯の原稿を書き上げると言うわけです。ライナーノーツと対訳も同じスケジュールであげてもらいます。

宣伝や営業のために資料なども同時に作成します。もちろん初期資料は全てが手書きです。制作の仕事は企画書から始まって、こういう書き物が多いですね。それにしても、特に邦題などは後世に残るものなので手を抜けませんが、時間経過の中で歌の本当の意味に、ふと気づくこともありました。後からこうしたかったと思う事ばかりです。

ビリーと私は同じ年齢です。日本だと団塊の世代の一番下。彼もアメリカの “コールドウォー・ベイビー”。彼のルーツはビートルズ以前はフォー・シーズンズや黒人ドゥーワップ。国は違っても、子供の頃ラジオから流れていた音楽に共通のものがあります。こういう表現も妙ですが『イノセント・マン』全体に溢れるサウンドは、そういう60年代の洋楽ドーナツ盤1枚330円の世界観です。となると邦題もその世界に近づけようと決めました。

自分にとっての懐かしき洋楽ドーナツ盤の邦題は「悲しき~」「恋する~」「愛する〜」など、定番は漢字とカナの組み合わせでした。また、80年代は、まだラジオからヒットが生まれていました。特にシングルカット候補曲には、ディスクジョッキーが曲を紹介した時、リスナーが覚えやすいタイトルをつけたつもりです。たとえば「あの娘にアタック」「夜空のモーメント」「今宵はフォーエバー」。短くまとまっている「アップタウン・ガール」「イノセント・マン」「ロンゲスト・タイム」に日本語は邪魔ですよね。帯原稿にも、“これはポップスの宝箱” とか記載しました。

輸入盤との差別化で実施したTシャツプレゼント企画は…

初回枚数は、ビリーですから10万枚以上はお店に入ってました。この初回購入者の特典として、先着5,000名にTシャツプレゼントを行いました。応募者の抽選ではなく大胆にも先着です。輸入盤との差別化のためでもあったし、初回分を早く消化させたいと先着プレゼントを初めて実施しました。ですが、結果大失敗…。

たくさんの購入者が発売日の翌日にはジャケットに貼り付けた応募券を速達で送ってくれましたが、1週間も経たない内に、ピタッと届かなくなりました。アルバムは初動から絶好調でベストセラーにまでなったのですが、ビリー・ジョエルの新譜で先着というところで、間に合わない… と、みなさん諦めたのですね。これは大いに反省しました。

ともあれ、ビリーは『ナイロン・カーテン』の発表で人生と彼のキャリアを大きくリセットしています。そして、この『イノセント・マン』で、また新しい人生とアーティストのキャリアをスタートさせたというわけです。

2019年12月9日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 喜久野俊和

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