命の終わりが訪れる日まで、どのように生きたい? 失胃の一年を振り返る 42歳グルメブロガー、がんになる。 毎日ビール.jp ユッキー(7)

 さて、2023年はわたしにとって「怒濤(どとう)」という言葉がふさわしい年でした。がん宣告を受けた3月から、休職・入院・手術・治療の開始を経験し、あっという間に1年が終わりました。全く想定外で本当にいろんなことがありましたから、この場をお借りしてわたしの2023年を振り返ってみたいと思います。

さすがに「おかしい」と感じた1〜3月

 「わが家のウーマクーも小学校入学だなぁ」と迎えた2023年。いま振り返れば、のほほんと暮らしていました。年の始めごろから、ごはんを食べる量が落ちた気がしていましたが「もう40代だし、てんこ盛り定食は卒業だな〜」とのん気に構えていました。

 胃の壁が鎧(よろい)のように硬くなって膨らまず、食べ物の貯蔵量が減ってしまう症状は「スキルス胃がん」の特徴です。当時、よく「ここのランチ、ボリューム多くない? おなかがパンパンでキツい!」と繰り返し話していたことを覚えています。日々の食事量が減り、人生MAXに肥えた体重もじわじわ落ち始めて、さすがに「おかしいぞ」と感じていました。

まだ病とわかっていなかったあの頃

 中でも、2月に行った広島のライブ遠征で食べた味噌(みそ)ラーメン。これがどうにも気がかりでした。麺はふつう盛り、トッピングは半熟味玉だけ。なのに、この時「もしかして広島って地域性で麺量が多いのかな?」と思うほど、お腹がパンパンになりました。実際にはそんなはずがなく、同じラーメンを頼んだ小柄で細身の60代の友人のお母さまは難なくペロリと平らげていました。

 ラーメンを食べた後、宿泊先のホテルに戻ると、エレベーター横のがん検診啓蒙ポスターが目に留まりました。悪魔のデーモン閣下が広告塔になっているのがおもしろく、すぐにスマホのシャッターを切りました。いま思うと、偶然にしてはできすぎています。

悪魔が来たりてがん検診

 3月には、新年度を前に近所のクリニックへ向かいました。広島での味噌ラーメンと悪魔のがん検診啓蒙ポスター、そしてもろもろ思うところがあっての検査です。経鼻内視鏡検査(鼻からの胃カメラ)を受けたところ、明らかに異常があり。胃潰瘍部分の細胞を生検に回した結果、胃がんと診断されました。半年前の健康診断では問題がなかったのになぁ。

 クリニックの医師からは「スキルス胃がんは胃全摘が前提」と伝えられました。ああ、もう食べ歩きができなくなると思い込み、心の中で「グルメブロガー、オワタ\(^o^)/」 とボヤいていました。

チューブを鼻に入れ、経鼻内視鏡が通るように穴を固定した

胃をまるっと失った4〜6月

 4月、新生活の始まりです。息子の小学校入学と仕事、そして病気が重なり、連日バタバタで落ち着きません。

 この頃、紹介先の総合病院に向かい、手術に向けた血液検査・CT検査・エコー検査・心電図検査などを受けました。検査は1日で終わらず、何度か通いつつ、手術日は4月末か5月上旬になると外科医師から伝えられました。

 おおよその日程が確定したので、職場や家族、近しい友人にスキルス胃がんで手術することを報告しました。すると「念のためセカンドオピニオンを受けては」「胃がん治療の経験が豊富な医師がいる病院に転院しては」と、わたしの頭に浮かんでもいなかったアドバイスをもらいました。本当にありがたかったです。

 病気を公にしない患者もいるでしょう。わたしにもその選択がありました。ですが、公にすることで、周囲から医療関連の知識不足をフォローしてもらい、結果的にかなりプラスに働いたと思います。病気を受容できず、普段以上に視野が狭くなっていた当時のわたしに喝が入ったというか。良くも悪くも、病気に関する知識武装をせねばならんぞ、と思いました。

胃全摘前、消化しにくいシーフードカレーの食べ納め。うますぎた

 そうして友人医師のススメに従い、友愛医療センター(沖縄県豊見城市)への転院を決めました。主治医の二宮基樹先生と初対面の際には「9日後、手術室を空けました」と言われ、面食らったのが忘れられません。「ちょ! ま! 夫の出張とかぶってるし! 息子は小1だし! 頼れる人が他にいないのに、どうする?!」と相当焦りました。

 手術に関わる病院側のスタッフ、そして患者自身の状況もありますから、すべての手術がこのスピード感とはいかないでしょう。ですが、二宮先生が積極的かつ迅速に院内調整してくださった背景には、スキルス胃がんの進行の速さが関係しているのだろうと、今では想像できます。結果的に9日後、わたしは手術室に入ったのですが、これほど超・超・超最短で手術を受けられたのは、人生でトップ3に入る幸運でした。

 ちなみに二宮先生は沖縄にいらっしゃる前、広島県で胃外科医としてご活躍されていたそうです。ヘビメタ遠征先の広島で食べたラーメン、広島で見かけた悪魔のポスター、そして広島から沖縄に来た主治医。広島に救われた気がしてなりません。

転院先に選んだ友愛医療センター(豊見城市)。お世話になってます!

 手術当日、朝9時に手術室に入ってすぐ、麻酔でぐっすり眠りました。当時、取材を受けた沖縄テレビの映像で、手術前に二宮先生が声をかけてくださっている映像が残っていますけれども、わたしにはその記憶がありません。次に目覚めたのは、すべての工程が終わって別室に移動する時でした。何本ものチューブに繋(つな)がれ、頭上では何かモニター音的なものがピコンピコンと聞こえました。

 手術は無事に終了しましたが、その日はもちろん、翌日も痛みで動けず…。 電気メスで開腹した傷が痛み、2種類の麻酔のボタンを押し続け、寒いのに暑く、寝たきりで背中が痛み、とにかくロクに眠れませんでした。横たわっているしかないので、推しバンドの新譜を聞き、心穏やかに過ごすよう努めました。

数日滞在した個室。術後の回復を待って大部屋に移動した

 手術3日目、リハビリの理学療法士が驚くほど急に動き回れるようになり、4日目からは食事が始まりました。わたしが受けた手術は胃をまるっと取り除き、食道と空腸(小腸)を吻合(ふんごう)する「ルーワイ法」という再建術です。胃を失ってわずか4日目で食べ物を通せる人間の体って、めちゃくちゃスゴい。

 入院先の食事は、手術後4日目から流動食、6日目から三分粥、8日目から五分粥、10日目から全粥、12日目から普通食へ。「おいしい!」「もっと食べたい!」とも「赤ちゃんの離乳食みたいだなぁ」とも思っていました。

流動食から全粥まで、ずっと完食していた

 術後14日目で迎えた退院の日。わたしと息子のサポートのため、実家の母が1カ月ほど沖縄に滞在してくれていたので、生活面や食事で頼りました。卵味噌や茶碗蒸しなどお袋の味を伝授してもらったり、高タンパク系ヨーグルトもよく食べていたなぁ。食事面で無理をするとおなかが痛くなるので、負担の少ない食事を心がけました。

 しばらくゆっくり自宅療養するつもりが、結果的には子どもに合わせて過ごしました。カーチャンの入院と息子の新生活がかぶってしまい、彼は彼で大変な思いをしたはずです。なので退院後は息子の赴くままに手を繋いで歩き回りました。体力低下で動けないかも…と心配したものの、ウーマクー相手に結構動けたので、「意外とイケるわ!」と自信がわきました。

退院から3日後、息子やお友達と一緒にDMMかりゆし水族館へ

 5月中旬、錠剤の抗がん剤(エスワンタイホウ)を開始。副作用らしい副作用がなく、私の体に合うようでした。ただ、唯一の欠点が糖衣錠(とういじょう)の味と香り。これがとっても苦手で、吐き出してしまいそうになるのをなんとか飲み込もうと苦労しました。今も慣れず、「無味無臭にしてくれ」と願っています。

 翌月には、点滴の抗がん剤開始(ドセタキセル)を試すことに。この副作用がかなり激しく、点滴開始の4時間後には激しい水下痢、そして説明が億劫になるほどの具合の悪さで寝たきりという、生活に支障が出まくりました。この頃ちょうど夫の県外出張や慰霊の日の小学校休みも重なって、横になりたいのになれないことが続いて。身体的にも精神的にも一番しんどかったなぁ。

ヤッケーだけど治療のために打たねばならんドセタキセル

 ドセタキセルから2週間後。車の運転もままならない体調不良の中、子どもを夫に託して外来に向かいました。この時の血液検査で、好中球・白血球の値が極端に減少しているとわかって。そうか、これが原因で、経験したことがないレベルの体調不良になったのか…と身をもって納得して。

 抗がん剤は体の細胞すべてを攻撃する薬です。健康な細胞もやっつけてしまうので、体を守ってくれる好中球もやられてしまったみたいです。このあと好中球が増える注射を2回打ちに行って、ようやく体調が戻って普通の生活を送れるようになりました。

 6月後半になると、頭髪の脱毛が始まりました。ドセタキセルは毛根細胞も攻撃してしまうので、主治医から「髪の毛が抜ける」と聞いていましたし、その日に向けてショートヘアにするなど準備をしていました。ですが、やっぱり精神的に相当ヘコタレました。他の体毛も減っていったのですが、まつ毛は抜けても、脇毛・すね毛・指毛は抜けなくて、人生の理不尽さに直面しました。

毛が〜! 毛がぁ〜!

やっと心の安定を得た7〜9月

 7月、夫にバリカンで坊主頭にしてもらいました。この頃、ドセタキセルの副作用が強すぎたことから、主治医判断で点滴の抗がん剤を一時的に中止し、しばらくは錠剤のエスワンタイホウだけを飲み続けることに。錠剤だけなら激しい副作用が出ませんから、タイミングを見計らって友達との食事などを楽しみました。

野球部かなってくらいすがすがしい坊主頭

 7月後半。手術から3カ月が経過し、刺し身やおすしなどのナマモノが解禁されました。それに合わせ、少しずつ食事の幅を増やしてみることに。ちょうどこの頃、胃全摘者がよく経験する「早期・後期ダンピング症候群」が起き始めました。食べ物とダンピングのバランスを取るには、血糖値の急上昇・急降下への配慮が必要になりそうです。

 私の場合、早期ダンピングでは食後の腹痛・下痢が生じ、後期ダンピングでは食後2〜3時間後の急激な眠気や冷や汗・手の震えが起きがちです。ダンピングは毎回起きるものでなく、トリガー的なものがありそうだぞ、と現在も模索しています。なかなか周囲に理解してもらえない症状なので説明が難しいけれど、胃を失った身では一生付き合わねばなりませんから、これからも乗り切る方法を探していきます。

【ことば】ダンピング症候群 胃を切除したことにより、食べ物が消化不十分なまま腸へ落ちてしまうことで起きる腹痛や下痢、めまい、頭痛、手指のふるえなどの不快な症状。食事中や直後に現れる「早期」と、食後数時間で現れる「後期」がある。

食道詰まりやダンピングに気をつけてグルメを楽しみたい

 9月、いきなり夫から登山に誘われました。本部町のデーザンダームイに向かったのですが、足元の悪さに加え、勾配が急すぎて、息切れが半端ありません。この数カ月、ほとんど体を動かしていなかったので、さすがに体力の衰えを感じました。夫のスパルタ具合にヒーヒー言いつつも、無事に登頂。そこには瀬底島を眺める、素晴らしい景色がありました。このあと下山で膝が笑い、翌日から1週間はまるまる激しい筋肉痛に苦しみました。

デーサンダームイ(本部町)から瀬底島方面への眺め

 登山の翌日、別の点滴の抗がん剤(オキサリプラチン)を試すため外来へ。今度は髪の毛は抜けにくい薬ですが、その代わりに手・口が痺(しび)れる副作用を経験しました。抗がん剤によって、副作用はさまざまな症状があります。ですが前回の点滴と同様、一日中横たわる倦怠(けんたい)感のひどさは変わりませんでした。

 そんな時に限ってやってくるのが、子どもの行事です。しかも屋外。人混みと厳しい残暑に体力が奪われました。しんどい体を引きずって帰宅し、老犬を抱えてベッドにダイブ。そのまま数時間横になりました。あの日は、登山と比べものにならないほど疲れたなぁ。

 9月後半、副作用もすっかり抜けた頃合いで、川崎市へと向かいました。目的は「推し活」です。立ちっぱなしで3時間も過ごせるのかわかりませんし、ライブ仲間には事前に「もしかすると、途中で抜けて、後方に座っているかも」と伝えておきました。が、始まってみるとアドレナリン垂れ流し状態で、スタンディングのままライブを終えられました。

 推しのステージングに喜びすぎて、この日から3週間はふわふわとした気持ちで過ごしました。そう考えると、メンタル安定のためのライブ参戦は費用対効果がよすぎますね。胃なんてなくても、変わらずに推し活できる今が最高に楽しい!と思えるひとときでした。

わたしはCLUB CITTA'に戻ってきた!!

日常を取り戻せ!な10〜12月

 10月、息子が通う小学校で秋休みがありました。この休みを利用して母子旅を計画。ママ友とそのお子さんも一緒の旅でしたから、楽しみも倍増でした。道中、ごはんが食道に詰まるアクシデントが2度もあったり、高速のインターチェンジを素通りしてレンタカーでぐるぐる迷うタイムロスもありましたが、そんなことも含めて楽しい福岡旅でした。思い切って母子旅に出てよかったなぁ。子どもたちもいい思い出と経験になったと思います。

秋休みを利用して福岡へ。母子2組で楽しみがマシマシ!

 10月中旬。これまで2回受けた点滴(抗がん剤)の副作用の様子から、主治医に「錠剤だけの治療でいきましょうか」と提案されました。錠剤+点滴の治療で、再発リスクをより抑えられると聞いています。ということは、錠剤だけだと再発リスクは多少高まるはずです。リスクを考えると、わたしひとりで治療方針を決断するのは重荷で、帰りの車中では「どうしよう」と涙がこぼれました。

 頼ったのはドライな性格の夫でした。AIのプロンプト(指示書)的に、錠剤だけの場合と錠剤+点滴の場合のメリット・デメリットを伝え、この先の治療方針を相談しました。いくつか追加質問もありましたが、ものの1分で「錠剤だけにすれば?」と最適解に導かれました。生き死にに関する相談に対し、即答できるってすごい決断力だと思いませんか。夫は良くも悪くもやっぱりAI的な人かもしれません。

AIに描かせた夫の図。雰囲気はだいたいあってる(チャットGPT/DALL・Eを使用し生成)

 治療方針が確定し、今後のスケジュールが読みやすくなったので、社会復帰に向けて動き始めました。10月下旬以降、勤め先の人事や産業医との面談を行い、復帰後の働き方や業務内容について調整を始めました。わたしからは早期・後期ダンピングの出るタイミングが読みにくいこと、症状が出た時の対処方法、そして外来スケジュールを伝え、会社側からは現状の体調確認、今後の治療のヒアリング、復職後の業務内容・勤務時間の相談などがありました。

 復職前に北海道へ帰っておこうと、11月後半にスケジュールを組みました。南から北への移動は、時間とお金が必要です。ちょうど1人分のマイルがたまっていたので、それを使って飛ぶことにしました。なぜ急に飛ぶことにしたか。それは、がんを経験したことで、いまのうちに会いたい人に会っておきたい心境が芽生えたからです。大学のサークル仲間、アルバイトでお世話になった飲食店、10代からの友達、北海道へ戻ることにした友人。いろんな人との再会を楽しみました。ついでに、ちゃっかり推しのライブにも参戦して。北の大地を十分堪能し尽くして沖縄に戻りました。

北の大地へマブイを拾いに。冬の札幌サイコー!

 そんなわけで12月に入り、この記事が公開される頃には、きっと社会復帰しているはずです。闘病・育児・仕事・老犬介護・趣味・推し事…。この先もわたしの奮闘は続きそうです。

人生観が変わった2023年

 長々と書きつづってしまいました。すみません、間もなく終わるので、もう少しだけお付き合いください。

 2023年後半、現役バリバリと思っていたミュージシャンの訃報が続きました。BUCK-TICKのボーカル櫻井さんに、X JAPANのベースHEATHさん、幼い頃ラジオで「愛は勝つ」を耳にしていたKANさん、そしてTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTやThe Birthdayで活躍したチバユウスケさん。さすがにショックでした。なんせ、何十年も存在を知っている方たちです。そっか、ミュージシャンも年を取れば、ファンも同じく年を重ねているんですよね…。 わたしも推し活を始めて23年たつしなぁ…。

 人生80年とも100年とも言いますが、いつかは誰にでも死が訪れます。健康だと思っている人も、病気を抱えている人も、それは一緒。必ず命の終わりがやってくるのです。

 ここまで長文を読んでくださったみなさん。あなたは命の終わりが訪れる日まで、どのように生きたいですか?

わたしは、おいしいものだけ食べて生きたいと思ってます

 自分がスキルス胃がんになって思ったことの一つに、「人生をたっぷり楽しまねばならない」という思いがあります。がんはいつ再発するかわかりません。健康でも事故死や突然死があります。尊厳死・自死を除けば、自分の人生の終わりは選べないのです。だったら、その日が来るまでしっかりと楽しまねば。そう思うようになったのは、お世話になった医療従事者のみなさんはもちろん、周りの方など「多くの方に支えられてこの命を繋いでもらっている」と気付いたから。

 当初は「病気になった。もう退路はない」と焦ったけれど、早期発見と早期治療が叶(かな)っていること、そして周りから応援してもらえることに助けられて、こんなにポジティブ思考になりました。もともとは根暗でオタクな人間なのに、病気を経験してここまで明るくなるなんて。笑

 病気が見つかって「グルメブロガー、オワタ\(^o^)/」と思いましたが意外と食べられるし、3〜5時間のライブでも平気なほど、いまのところ元気です。主治医からは都度「楽しみを見つけましょう」と働きかけられますから、がん患者も無理のない範囲でしっかり人生を楽しんでよいのだと思います。わたしの場合、グルメやライブ遠征、旅などの楽しみが、生きる活力、そして治療を乗り越える力になっています。だから「これまでの日常生活をなるべく維持しつつ、楽しみをもっと充実させよう」と思うのです。いやー、ほんとにね、病気を通じて人生観が大きく変わったなぁ。

 ちなみに、2023年の頭にひっそり立てていた「2023年はライブ遠征に4回は行きたい」という目標は、病気を経ても無事に叶えられました。今年もどうにか時間とお金をつくり、日常生活も趣味もしっかりと楽しんでいく所存です。

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