鮎川義介物語⑥関東大震災契機にフォードなどが日本進出

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・日本で自動車が普及し始めたのは大正12年の関東大震災が契機。

・フォードは大正14年横浜市緑町でT型フォード組み立て工場を設置。

・日本で製造・組み立てされる自動車の97%はアメ車だった。

日本の自動車産業の先鞭をつけた一人が日産グループの総帥、鮎川義介です。前回の連載では、鮎川はアメリカの技術で、自動車会社をつくったことをお伝えしましたが、そもそも自動車が日本に上陸したのはいつなのか。私は素朴な疑問を持ち、歴史を調べました。興味深いことが分かりました。

日本で自動車が普及し始めたのは、大正12年の関東大震災が契機です。東京の国鉄や私鉄、市電などが壊滅的になり、首都機能は完全にマヒしたのです。そこで注目されたのは、自動車でした。

復興院は、帝都復興のためには、自動車が必要だと主張したのです。選ばれたのは、フォード車のT型フォードです。800台輸入され、東京市内を走る「円太郎バス」と呼ばれました。11人乗りの小さなバスでしたが、これは、震災で壊滅状況になった市内を回るのには、好都合だったのです。

フォードはこれを機に、日本への本格進出に着手しました。実はそれ以前に、アジア進出の拠点として、中国の上海に工場を建設する計画を立てていましたが、当時の中国は政情が不安定。国民の生活水準も低いことから、計画は遅々として進まなかったのです。

フォードの調査員、ロバージュは関東大震災の翌大正13年、日本を訪問。横浜に船で到着した後、東京へ向かいました。

ロバージュは関東大震災で、日本は壊滅したと聞いていましたが、復興しつつある街の姿に驚いたのです。フォード車が輸出した自動車は、資材や生活物資を運び、街を縦横無尽に動き回っているのです。「日本は力強く、復興しつつある」と感じました。

帝国ホテルを拠点に、調査を始めたこところ、日本の政財界の中では、自動車の重要性を訴える声が多く寄せられていました。ロバージュは「日本は自動車市場としては有望」との結論に至り、本社に報告しました。

▲写真 関東大震災直後、廃墟になった東京。車が走っているのが見える (1923年9月1日東京)出典:Evans/Three Lions/Hulton Archive/Getty Images

フォードは、このロバージュ報告を受けて、アジア市場の拠点を上海から日本に切り替えたのです。それ以降、フォードは日本市場に怒涛のように進出しました。まずは、大正14年2月横浜市緑町で、T型フォードの組み立て工場を設置したのです。全国に代理店を設けました。2年後には、横浜子安に本格的な組立工場を建設し、年平均で1万台の自動車を販売したのです。

GMもフォードの進出から1年後、調査員を派遣し、組立工場の設置を検討したのです。どこに組み立て工場を設置するか。横浜市と大阪市が手を挙げたが、結局は大阪市が誘致に成功しました。その際、大阪市議会は「向う4年間の税金は免除」などといった便宜を与えたのです。

大阪市は神戸港という貿易港を持っており、GMにとっても好都合でした。結局、昭和2年に大阪に進出したのです。さらにクライスラーも昭和5年に横浜に進出しました。

昭和初期にはアメリカのビックスリーがそろっては日本に進出したのです。3社は販売競争を繰り広げたのです。新聞広告なども積極的に展開しました。月賦販売とディーラーシステムいう手法を採用したのです。月賦販売の結果、1円で都内どこまでも走れる「円タク」が急速に普及したのです。それは大半がフォード車でした。また、ディーラーシステムも画期的だったのです。フォードは各県に1店の販売店を設置し、販売と修理を手掛けました。

日本市場はアメリカ車によってほぼ独占された。日本で製造・組み立てされる自動車の97%はアメリカ車という具合でした。

(⑦につづく。

トップ写真:出荷を待つT型フォード(1925年アメリカ)出典:Hulton Archive/Getty Images

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