前代未聞の事件はなぜ起きたのか? レスリング世界選手権を揺るがした“ペットボトル投げ入れ事件”

レスリング会場で投げつけられた2つのペットボトル――。日本の選手たちがパリ五輪代表の座をかけてせめぎ合うなか、男子グレコローマンスタイル67kg級の曽我部京太郎が巻き込まれた前代未聞の事件とは?

(文・撮影=布施鋼治、トップ写真=長田洋平/アフロスポーツ)

消滅した東京五輪・金メダリスト乙黒拓斗のパリ行き

自分の敗北に納得できない乙黒拓斗は通路で思い切りペットボトルを地面に叩きつけた。その瞬間、中に入った水はあらぬ圧力を受けあたりに飛び散った。

2023年12月23日、天皇杯全日本レスリング選手権・第3日。男子フリースタイル65kg級準決勝で波乱が起こった。優勝を確実視されていた乙黒が無印の清岡幸大郎に敗れたのだ。

この階級はまだパリ五輪の代表が決まっていない。出場するためには、この大会で優勝して、来年4月のアジア最終予選か5月の世界最終予選のいずれかでファイナリストにならなければならない。

清岡に敗れた時点で、東京五輪・金メダリストである乙黒のパリ行きは消滅した。清岡サイドから出された2度のチャレンジ(判定に異議がある場合、選手同意のうえ審判団によるVTRでの再確認を要請すること)によって、自分の勝利がなくなってしまい、手にしたペットボトルを投げつけるしか怒りのやり場はなかったのか。
その現場を目の当たりにしたとき、わたしは3カ月前の世界選手権で目撃したあの場面を思い出さずにはいられなかった。そう、あのときも事件のきっかけはペットボトルからぶちまけられた水だったのだから。

金メダリストを相手に、どれだけ大きな爪痕を残せるか

犯人が自分と数メートル程度しか離れていないところにいることはすぐわかった。恐る恐る傍らを見ると、彼は瞳孔を大きく開けながら、ペルシャ語らしき言葉を連呼していた。過去にこれほど興奮した人を見たことがない。

2023年9月23日(現地時間)、セルビアの首都ベオグラードで行われていたレスリングの世界選手権・第8日。階下のアリーナでは男子グレコローマンスタイル67kg級3回戦として曽我部京太郎とモハマド・レザ・アブドルハム・ゲラエイ(イラン)が行われていた。

今大会はオリンピックの前年度に行われる世界選手権のため、オリンピック階級に出場している日本代表は3位以内に入賞すれば、その選手がパリ五輪の出場切符を手にすることができる。今回が世界選手権初出場となる曽我部が張り切らないわけがなかった。

トーナメントの組み合わせが発表された時点で、最初の山場は3回戦になると予想された。というのも、そこで当たることが濃厚だったゲラエイは2021年の東京五輪同級の金メダリストで、同年の世界選手権優勝者でもあった。シビアな見方をすれば、「オリンピック金メダリストを相手に、曽我部はどれだけ大きな爪痕を残せるか」という見方が大半を占めていた。

絶好調・曽我部京太郎が見せた大金星“目前”の戦い

ところが、この日の曽我部は絶好調だった。第1ピリオドからオリンピック金メダリストを相手に臆することなくプレッシャーをかけ続け、グラウンドのローリングによってあっという間に7-0と早々と王手をかける。グレコローマンスタイルでは8点差以上の点差がつくと、テクニカル・スペリオリティ(前名はテクニカル・フォール)という名のコールドゲームと見なされその時点で試合は終了する。

曽我部の大金星目前に興奮するしかなかったが、レスリングではたとえポイントを大きく離されていても、流れやリズムを少し変えるだけで、逆転することも十分に可能だ。とりわけグレコローマンでは何かをきっかけに、大逆転するようなダイナミックな展開がよく見受けられる。

案の定、第2ピリオド開始早々、ゲラエイは反撃を開始。バックを取ったかと思えば、リフトして投げ捨てビッグポイントを奪い、あっという間に1点差まで詰め寄った。さらにゲラエイは俵返し(サイドスープレックス)を仕掛けようとするが、曽我部は踏ん張って再び攻守逆転。相手の胸や腹のあたりを両腕でクラッチして回転させるテクニック──ローリングによって、テクニカル・スペリオリティに該当する15-6まで点差は開いた。

筆者が「大金星だ!」と喜ぼうとした刹那、ゲラエイサイドはチャレンジを要求した。VTRによる再確認によって、曽我部はローリングを仕掛ける際左手が相手の足にかかっていると見なされ、この攻撃による加点はすべて無効とされてしまう。結局、点数は7-8と逆にゲラエイが1点リードという形に修正された。

このチャレンジによって試合の流れは大きく変わるかと思われたが、ここで曽我部は地力を発揮して10-9と逆転に成功する。この時点で残り時間は1分15秒もあった。誰の目から見ても、曽我部にスタミナは十分残っているように見えた。対照的にゲラエイのほうは攻め疲れたのか、明らかに疲労の色を見せていた。

狂気とペットボトル――。前代未聞の事件はなぜ起きたのか?

ここで前代未聞の事件が起こった。 筆者の隣から何者かが試合中のマットに水の入ったペットボトルを投げ入れたのだ。衝撃によってペットボトルから水が溢れ、マットを濡らした。すぐ試合は中断された。

そのときわたしは首に一眼レフカメラをぶら下げていたが、犯人にレンズを向ける勇気はなかった。距離が近すぎるし、そうすることで彼の怒りの矛先がこちらに向いてくることが十分予想できたからだ。身の危険すら感じた。遠目から望遠で写真を撮っている記者がうらやましかった。

犯人はすぐ立ち去ろうとしたが、すぐさま複数の係員が小走りにやってきて彼を取り囲み人気のないところに連行した。

犯人はすぐ特定された。ゲラエイの実兄でグレコローマン77kg級のモハマダリ・アブドルハミド・ゲラエイ(イラン)だった。その兄もまた今回の世界選手権に出場しており、前々日に試合を終えたばかりだった。弟のまさかのピンチにいてもたってもいられず、衝動的に暴挙を犯してしまったのだろうか。

犯行場所はプレスのID(身分証明書)を持っている者しか入れないエリアだったので、なぜゲラエイ兄がそこに入ってこれたのかわからない。もしかしたら、弟の万が一に備え、ペットボトルを片手にマットを見渡しやすいプレスエリアに侵入してきたのだろうか。

いずれにせよ、このアクシデントによってゲラエイは十分なインターバル(休憩)を得ており、試合が再開される頃には体力も回復していた。それでも、曽我部は場外に押し出したポイントでスコアを10-10のイーブンにしたが、このままだと一つの技で4点というビッグポイントを奪っているゲラエイの勝ちとなる。

果たしてゲラエイは“逃げるが勝ち”とばかりに組み合おうともせず、試合を流そうとした。何一つ攻めていないのだからコーション(反則による減点)の対象になってもおかしくなかったが、この試合を裁いた主審はそうしようとしなかった。結局、10-10のまま試合終了のホイッスルが鳴らされた。

ゲラエイの勝利が確定した瞬間、場内からは大ブーイングの嵐が湧き起こった。誰の目から見ても、納得のいかない裁定だったのだから無理もない。試合後、ミックスゾーンに現れた曽我部は目に涙をいっぱいためながら気丈に振る舞った。

「あと一歩のところでポイントを取れないということは、その取り組みが足りなかったということ。もっとレスリングと向き合いながら考えてやっていきたい」

もっと言いたいこともあるのではないかとも思ったが、曽我部は正々堂々と闘うアスリートとしての立場を貫いた。公式インタビュー後にオフレコで本音を吐露することもなかった。しかし、ペットボトル投げ入れ事件はそれだけで終わらなかった。

【後編はこちら】「ペットボトルの一件は書かないでくれ」理不尽な敗北も世界王者肉薄の曽我部京太郎。過去の事件での涙を忘れ、前だけを向く

<了>

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