何が起きたのか想像を 長崎の被爆者・竹下さん 被爆遺構の保存運動に注力、味わった悔しさ

遺構の価値を説く竹下さん=長崎市滑石6丁目

 「どんなかけらにも意味がある」-。長崎への原爆投下から79年。「物言わぬ語り部」が語り継ぐ力を信じてやまない女性がいる。「長崎の被爆遺構を保存する会」の竹下芙美さん(82)=長崎市滑石6丁目=。都市開発の波などに飲まれ、消えた“被爆の証人”に寄り添ってきた。
 3歳の時、疎開先の西彼時津村(当時)で大きな光を見た。その後、家族と長崎市西坂町の自宅に戻り入市被爆した。若い頃から皮膚がんなどを患い、体調を崩しがちだった。
 普通の主婦として暮らしていた1987年。沖縄の戦争遺跡を知人と見に行き、地上戦のすさまじさを伝える遺跡が現存することに驚いた。「遺跡があるだけで伝わる力が違う」
 92年。平和公園(松山町)の地下駐車場建設工事で、旧長崎刑務所浦上刑務支所の基礎部分が現れ、初めて知った事実がある。戦時中、県内の炭坑で働いていた中国人が同支所に収容され、原爆で死んでいたのだ。「戦争の裏面を伝える場所がこんな近くにあったなんて」。全面保存を求める市民運動に飛び込んだが、願いは届かなかった。
 爆心地公園(同)の再整備が進んでいた96年、近くの「下の川」沿いの工事現場で、熱線で表面が泡立った瓦を見つけた。1カ月半通い続け、人骨や遺品など約1200点を掘り出した。「この下には何も知らずに死んでいった人の生きた証しがある」。市に発掘調査を求めたが実現せず、被爆当時の地層が窓越しに見えるスペースが設置された。
 自ら掘った遺品など約1千点は2003年、母校の市立銭座小に贈った。「この瓦ぬっかごた(温かい)気がする」。1人の男子児童が口にした言葉を聞き、「モノ」を通して想像する力の大切さを再認識した。
 被爆遺構の保存運動は悔しさの連続でもあった。被爆直後の救護所だった市立旧新興善小は04年に解体。11年、平和公園エスカレーター設置工事で見つかった防空壕(ごう)は一部しか残らなかった。天神町の銭座防空壕群も19年、西九州新幹線工事に伴い、15カ所すべて撤去された。「被爆者がいなくなった時、『あの日』を代わりに伝えてくれる」。そう訴えても「被爆の痕跡がない」と切り捨てられてきた。「市はいつも壊す姿勢で『モノ』を見ている」
 昨年10月、国の文化審議会は「長崎原爆遺跡」に下の川などを史跡に追加指定するよう答申。展示窓越しに被爆当時の地層が見える場所に面する川だ。「多くの人の関心が集まるのはいい動き。ここに来て、何が起きたのか想像してほしい」。それが継承への第一歩なのだから。

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