「いつも仏頂面」の名将がまさかの大喜び ONに代えて柴田勲さんを4番にしたら、驚きの一発 プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(32)

1977年頃の柴田勲さん。「赤い手袋」がトレードマークだった

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第32回は俊足巧打のスイッチヒッターで巨人V9戦士の柴田勲さん。「1番・センター」の印象が強いですが、選手として脂の乗りきった頃の打順変更には苦労されたようです。(共同通信=中西利夫)

1962年に巨人へ入団した頃の柴田勲さん。神奈川・法政二高のエースとして甲子園を沸かせたが、プロでの投手成績は新人年の0勝2敗だけに終わった

 ▽文字通りの「けがの功名」で生まれたトレードマーク
 巨人がピーター・オマリーさん(後の米大リーグ、ドジャースのオーナー)との関係があったので、3年に1回とか(フロリダ州の)ベロビーチ・キャンプに行っていた頃の話です。(プロ6年目の)1967年ですかね、ベロビーチに僕は初めて行った。投手で入団し、肩を壊して打者に転向したので、スライディングも足から滑るワンパターンしかできなかった。向こうの走塁コーチに呼ばれて、ヘッドスライディングを練習してみるかというので、砂場に連れて行かれた。だけど全然駄目で、いきなり両手を擦りむいちゃった。それっきり、コーチは「ああ、分かった。やめとけ。今まで通りやれ」。それで終わった。

1967年の柴田勲さん。70盗塁で2年連続の盗塁王を獲得したシーズンとなった

 ところが、その日はドジャースとナイターの試合があった。練習じゃなくて試合のための遠征です。外野手は4人しかいなかった。それで出なきゃいけないけど、手は擦りむいて痛い。たまたまドジャースのグラウンドの周りにゴルフ場があって、その場しのぎでゴルフの手袋を買おうとした。そしたら外国の男性の手って大きいんですよ。合うのがなくて、どうしようかなと帰りがけに横を見たらレディースコーナーがあった。赤い手袋を両手にはめたら僕にぴったりだった。アメリカにいる間だけだから、まあいいや、試合だけ使おうって。ナイターで赤い手袋なんて目立ったんでしょうね。目立っただけでなく、2本ヒットを打って2盗塁した。
 これは縁起がいいというんで、日本に帰ってもしようと思ったんです。当時、日本で手袋をしている人は誰もいない。野球用のはないから、メーカーさんに特注で両手分を作ってもらった。ゴルフ用だから当時は引っ張ると、すぐ破けたりした。初めの頃はバッティングをする時は素手で、塁に出た時だけはめるという感じ。それが良かったのかどうかは分からないけど、赤い手袋をしてファンの人に後押しされたんでしょう。走れ、走れと言われて、70盗塁で盗塁王になった。塁に出たら後ろのポケットから手袋を出してを2年ぐらいやって、面倒くさくなって、打つ時も手袋をするようになった。それから、みんなはめるようになった。今は99・9%、してるんじゃないですか。王貞治さんも長嶋茂雄さんも当時は素手でやってた。手袋は僕と高田繁ぐらいかな。「けがの功名」とか「ひょうたんから駒」とでも言うのか、アメリカで僕が手を擦りむかなければ、手袋をするなんて発想は全くなかった。何が幸いするか分からない。ああいうものは最初の人がいい。二番煎じは駄目ですね。

1969年7月の阪神戦で柴田勲さんが4番に起用された際のオーダー=甲子園

 ▽あんなにうれしそうな川上さんは見たことがない
 川上哲治監督は僕の右打席のバッティングを買ってくれていた。70盗塁した翌年に「頼むから右一本に変わってくれないか」と言われて、嫌々右一本になった。でも全然駄目でね。たまにホームランは出るが、打率が落ちる。あれが唯一、失敗だった。(右打者に専念した)3年間は遠回りしたかなと。5番だから盗塁も減った。僕にとっては一番いい時に、あまりヒットを打ってないという感じ。50~70本損したんじゃないかな。
 69年に1試合だけ4番を打った。スタメン発表まで分からなかった。川上さんもマネジャーも言ってくれず、掲示板を見て、えーっと思った。4番起用は、なぜかというと阪神の江夏豊に相性が悪いということで、気分転換。江夏が一番いい時期で、長嶋さん、王さんだけじゃなく、チームが江夏に良くなくて、苦肉の策で。ON(王、長嶋)がばりばり健在の時に4番を打ったのは僕だけ。初回に江夏から2ランを打って、4―1で勝った。

1969年の柴田勲さん。このシーズンから3季は右打者に専念した

 甲子園球場から宿舎の旅館へ向かうバスに乗った時の、川上さんの顔をいまだに忘れません。あんなうれしそうな監督さんは見たことがなかった。大体、あんまりうれしそうな顔をしない。ホームランを打っても今のように握手しにいく監督じゃない。それがバスに乗った途端に僕の手を取って「おお、ナイスホームラン」って握手してくれた。自分が一番うれしかったんだと思う。だってONの間に打った人、今まで誰もいないわけです。負けたら何て言われるか分からない。僕が2ランを打って自分の采配が当たったんですから。川上さんにとっては大英断だったのでは。

1980年8月のヤクルト戦で通算2千安打を達成した柴田勲さんはファンの声援に応える=神宮

 ▽両打ちだったら交代させられないのに
 左はもともと短く持ってピッチャー返しという感覚があったから、ガーンと振るというのは教わっていない。短く持ってちょこんと。左で打率が上がったというわけじゃないけど、スイッチをやっていると代えられたことがなかった。(右打ち時代は)いい右投手が出てくると、たまに代えられたから、そんなんだったらスイッチの方がいいと再転向した。元に戻したいと伝えたら、川上さんに「勝手にやればいいじゃないか」と言われた。「なんだよ、こりゃ」と思った。ただ、戻るといっても3年間は左の練習をやっていない。また一から左をやり直さなければいけない。僕は作った左だから、最初の1、2カ月は違和感があった。途中から慣れてきてスイッチが安定した。
 2千安打に近づいてからは代えられる時はあったけど、監督の長嶋さんが2千本をどうしても早く打たせてやろうと。80年8月にヤクルト戦で達成した。でも、その翌日からスタメンが少なくなった。僕は辞めるつもりだったけど、引退することは言ってなかった。そしたら長嶋さんが監督を辞めて(後任の)藤田元司さんが「プレーイングコーチで」と。なぜなら王さんが現役を引退して、ONがいなくなっちゃうから。どうしようかなと思ってたら、川上さんから「それは手伝ってやれよ」と言われた。それじゃ、やらせていただきますって1年間プレーイングコーチをやった。あんまり良いシステムじゃないですね。プレーヤーをしながら選手を教えるなんて、難しいですよ。外野の守備と走塁は全部おまえに任せたと言われた。ただ、コーチの方がやりやすかった。現役にこだわるところはなかった。2千本まではやろうという感じ。名球会ができた78年は、まだ打っていたので通過点かなと思っていたけど、持ち越してしまい、だんだん2千本で終わりかなという尻すぼみになった。

インタビューに答える柴田勲さん=2023年7月撮影

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 柴田 勲氏(しばた・いさお)神奈川・法政二高のエースとして甲子園大会を夏春連覇。1962年に巨人入りしたが、投手で0勝2敗と振るわず、2年目から外野手に専念した。65~73年の日本シリーズ9連覇に貢献。盗塁王6度で、通算579盗塁は歴代3位。80年8月にスイッチヒッターで初の2千安打に到達し、名球会入りの条件を満たした。翌81年限りで引退。44年2月8日生まれの79歳。神奈川県出身。

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