阪神・淡路大震災で母富代さん=当時(44)=を亡くし、児童養護施設で育った神戸市須磨区の鈴木佑一さん(34)が17日、神戸・東遊園地で開かれる震災29年の「追悼の集い」で遺族代表として言葉を述べる。10日に神戸市役所で会見した鈴木さんは「自分が経験したことを伝えて、誰かの役に立ちたい。一人でも元気になってくれる人がいれば」と涙をぬぐいながら語った。(上田勇紀)
震災当時は5歳。生活に困窮する母子の駆け込み寺といわれた神戸母子寮(神戸市兵庫区)の1階に、母、兄と3人で住んでいた。
激震で木造2階建ての寮は全壊。気付けば暗闇の中で土のにおいがした。うつぶせのまま身動きが取れない。「なんで?」。状況がつかめないまま、数時間を耐えた。
鈴木さんが救出された後、母は毛布をかぶった状態で見つかった。「死んでる」。幼心に直感した。膝の上でよく自分をだっこし、歌うことが好きだった母との突然の別れだった。
児童養護施設「神戸実業学院」(同市兵庫区)に入った。別居していた父は、2人を育てられないことなどから兄を連れて去った。
「独りで待つのがつらくて、つらくて…。いつしか自分で生きていかないといけないと悟った。家族に会いたいと思うより、生きることに必死だった」。思いを断ちきるように勉強や体を鍛えるトレーニングに励んだ日々。振り返りながら、鈴木さんは目頭を押さえた。
施設の理事長や大学の恩師、母子寮の元職員らが支えになった。「自分って本当に、見守られてるなって気付いた」。大学院に進み、英国留学を経て輸入販売などの会社を立ち上げ、現在は同市須磨区を拠点に貿易業に取り組む。
先月、細い糸をたぐるようにして連絡を取り、兄と再会を果たした。語り合うことで兄の苦しみや後悔に触れた。「幸せになってほしい」。そう伝えることができた。
鈴木さんは背中にタトゥーがある。佑一の「佑」の周りを父、母、兄の名前の1字ずつが囲んだものだ。「バラバラになった家族が一緒になれるものがほしい」と刻んだが、「今は意識しなくなった」という。震災から29年の歩みが、こわばっていた家族への感情を少しずつ溶かしていった。
今月1日に発生した能登半島地震の被災地には「何を伝えていいか分からないのが正直な気持ち」と語る。「人の心ってそれぞれスピードが違う。僕はここまで来るのに29年かかった」。捜索活動などのニュースに接し「僕自身も震災で生き埋めになった。一人でも多くの人が助かってほしい」と願う。
17日は早朝、東遊園地で追悼の集いに参加した後、初めて兄とそろって母の墓参りへ向かう。「僕らが一緒に行くことで、きっと喜んでくれると思う」。会見の最後は笑顔で前を向いた。