鮎川義介物語⑩「満州に移住してもいい」鮎川の本気度

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・鮎川は「満州の重工業会社、資源会社や持ち株会社を担保に米国資本を入れること」を提案。

・「日産全体が満州にいく覚悟が必要」で「移住してもいい」とまで表明。

・鮎川は、満州開発で「米の出資を受ければ日米開戦は避けられる」と説明。

星野直樹は3日後の夕刻に、麹町の三番町にある鮎川義介の自宅を訪れました。大きな屋敷です。門を叩くと、女中が出てきました。星野だと名乗ると、すぐに居間に通されました。洋風の造りで、白の壁紙。明るい雰囲気を漂わせていました。

「星野さん、わざわざ出向いてもらってありがとうございます」

「本日は満洲開発の青写真をお聞きするため、参りました。どんな具体案があるのですか」

「満洲の重工業の開発には、アメリカの機械を導入する必要があります。これには思い切って米国資本を入れなければなりません。しかし、それには担保が必要です。私が思うのは満洲の重化学工業そのものが担保になります」。

「一体どういうことですか」

「満洲の重工業、鉄鋼なり、自動車なり、鉱山なりがそれぞれ分野ごとに会社を作ります。それらの会社の上に、全体を統括する持ち株会社を作ります。満州の重工業会社、資源会社すべてを傘下に持つ会社です。つまりこの持ち株会社や傘下の企業を担保にして、アメリカから資本を借り入れ、満州全体の開発を行うのです」。

「鮎川さんが日本にいて、だれか経営者を満州に派遣するのですか」。

「そうじゃない」。鮎川は机をたたいた。

「私一人で満州に飛び込んでもだめだ。誰か経営者を送り込んでもだめだ。日産全体が満州に飛び込んでいく覚悟が必要だ。私は日本での事業はあらかた終了した。思い切って満州に移住してもいいと思っています」。

星野は鮎川の言葉に驚きました。この男は本気なのです。これほど大きくした日産財閥をそのまま、満洲に引っ越すという考えなのです。それは、この言葉通りに実行されれば、満州国に事業が根付くでしょう。5カ年計画のめども立つでしょう。満州には新時代が到来するのです。

星野に鮎川を推薦したのは、部下の次長である岸信介でした。ある日、星野が岸に尋ねました。

「満州の自動車産業を発展させるためにはどうすればいいと思いますか」。

「5カ年計画では、最終年度までに年間2万台の生産を目指しています。今の同和自動車には、その技術力はありません。自動車を大量生産するためには、日本の自動車会社を呼び寄せるべきです」。

「日本では日産自動車と豊田自動車が競争しているが、どっちがいいと思いますか」

「鮎川さん率いる日産がいいと思います」。

星野は岸のアドバイスを受けて鮎川に面談することにしました。

実は、星野は、今のポストへの就任直後の11年11月に鮎川と面談していました。陸軍は日本の財界人を満州に招待したのです。そこには、元鈴木商店番頭の金子直吉、日本窒素創業者の野口遵、三井物産筆頭常務の安川雄之助らそうそうたる財界人が名を連ね、鮎川も参加していたのです。

財界人グループは満洲各地を視察し、最終的には新京で、陸軍や満洲国の高官らと意見交換しました。財界人の中で特別印象深かったのは鮎川でした。

鮎川は「日本の外貨不足を補うため、満州ではもっと金の生産を増やし、輸出に回すべきだ」と強調。「満洲国の経済開発に30億ドルの投資が必要で、そのうち半分はアメリカとヨーロッパ、とくにアメリカからの出資が必要だ。日本だけのお金では満州を開発できない。技術的にも無理だ」と大演説し、ふと一言漏らしたのです。

「それに、アメリカの出資を受ければ、日米開戦は避けられる」

満洲の工業化は日本にとって最も重要なテーマでした。ただ、それに突き進めば、アメリカとの衝突の危険は高まります。回避する秘策としての日米共同開発。鮎川はそんな大胆な手法をいとも簡単に説明したのです。

そこに、鮎川の緻密な計算と大胆な事業計画が見えました。星野はこの時以来、鮎川を尊敬していたのです。

(その⑪につづく。

トップ写真:日本が植民地化していた頃の満州・大連の様子。大連・ヤマトホテルの屋上から見た大連広場の眺め(撮影日不明)出典:Photo by George Rinhart/Corbis via Getty Images

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