「安楽死」とは『三省堂国語辞典(第七版)』によれば、〈はげしいいたみに苦しみ、しかも助かる見こみのない病人を、本人の希望を入れて楽に死なせること〉とある。しかし近年では、「障害者を安楽死させるべきだ」と声高に叫ぶ殺人犯が現れ、著名脚本家が「社会の役に立てなくなったら安楽死で死にたい」と主張するなど、本来の言葉の意味と異なる使い方がなされているケースも多い。
その背景には、海外で安楽死が次々と合法化された国際的な流れや、日本国内の社会情勢の変化なども少なからず影響しているのかもしれない。一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事の児玉真美さんは、日本では安楽死の合法化について話す以前に、「まだまだ知るべきことが沢山あると気づいて」ほしいと話す。
この記事では、安楽死をめぐる国内外の動きや、揺れる言葉の定義について解説する。連載第4回目は、安楽死が合法の国として有名なスイスでの医師幇助自殺の実態や、議論を呼ぶ“ドクター・デス”の挙動と当局の動きについて紹介する。
※【第3回】混同される「安楽死」と「尊厳死」 “合法化”議論の前に理解されるべき言葉の意味
※ この記事は児玉真美さんの書籍『安楽死が合法の国で起こっていること』(筑摩書房)より一部抜粋・構成しています。
ラディカルになっていく自殺ツーリズム
スイスは安楽死が合法とされている場所の中でも特異な状況にある。 旧来の自殺法等の解釈により個人的な利益目的でなければ自殺幇助は違法とみなされないため、1982年に設立された「エグジット」など、スイス国民と1年以上同国在住の人を対象にした医師幇助自殺機関が合法的に活動している。
それらの機関を利用して自殺した人は1998年には43人だったが、2009年には300人と11年間でざっと7倍に増加。最近のエグジットのデータでは、2020年にはコロナ禍により2か月ほど活動できなかったものの1982人。活動休止期間を考えると、2009年以降の11年間でさらに7倍近い増加と言ってよい。
スイスの総死者数に占める医師幇助自殺者の割合は1.5%。ほぼ3分の1が癌患者で、平均年齢は78.7歳。女性が59%と男性よりも多い。これらの傾向は、おおむね変わっていない。
外国人も受け入れる自殺幇助機関は長らく1998年に設立された「 ディグニタス」のみだったが、2011年に「ライフサークル」、2019年に「ペガソス」ができて、現在は3つ。
ディグニタスのみだった時期にも、たとえば事故で全身まひとなり「二級市民」として生きるのは耐えられないと訴えた20代の男性や、「妻を失っては生きていけない」と末期癌の妻と一緒に自殺した健康な高齢男性、社会的な疎外感を抱える健康な高齢女性など、終末期ではない人や健康な人の幇助自殺まで数多く行われていたが、新たな機関が加わるたびにスイスの自殺ツーリズムはさらにラディカルなものとなってきた観がある。
ライフサークルは、ディグニタスにかか わっていた医師エリカ・プライシクが独立して立ち上げたもの。プライシクは、2015年にスコットランドでの講演の際に以下のように語っている。
「85歳を過ぎれば生きるのがそれまでより難しくなるというのは誰でも知っていること。 体力はないし、関節炎は出てくるし、いろんな病気をたくさん抱えます。脳卒中などで頭の能力が低下する可能性もあります。85歳以上の人が熟慮の末に 死にたいというなら、私は邪魔をしたいとは思いません」
このように、高齢で加齢に伴う症状をあれこれと抱え(polypathologyといわれる。日本語の定訳はまだない)、命にかかわる病気があるわけではないけど人生はもう完結したと考える人や、将来的に家族の負担になることを案じる高齢者の医師幇助自殺が「理性的自殺」「先制的自殺」などと称され、近年とみに増加している。
長寿科学者の自殺を取り仕切った“ドクター・デス”
2018年に世界的に注目されたのが、当時まだ安楽死を合法化していなかった西オーストラリア州在住の元科学者デイヴィッド・グッダール(104歳)の自殺だった。
オーストラリアのドクター・デス(Dr. Death)ことフィリップ・ニチキの強力な支援を受け、出国前から移動中もメディアに露出しては、重大な病気はなくとも加齢によるQOL(生活の質)の低下が耐えがたいと語り、自国で医師幇助自殺が認められない理不尽と法改正の必要を訴え続けた。
世界中が注視する中スイスで記者会見を開いて、翌日にライフサークルで自殺。オーストラリア出発前から常にニチキが傍に付き添い、部屋に入って最後の書類に署名するまでが取材クルーによって撮影されてニュース映像として流された(このように、ごく先鋭的な欧米の安楽死推進派ですら、実際の幇助プロセス、まして死の瞬間の映像を撮らせることは控えているので、「NHKスペシャル 」がライフサークルでの日本人女性の幇助の実際ばかりか死の瞬間の映像まで流したことは私には衝撃だった)。
ニチキは自国オーストラリアで安楽死推進団体「エグジット・インターナショナル」を立ち上げた人物で、死にたいと望む人は誰でも死ねるべきだとの持論の持ち主。
最近では「3Dプリンタで手軽に作成できて、誰でもいつでもどこでも苦しまずに死ねる。そのまま棺桶にもなる」という謳い文句でカプセル型自殺装置を考案して、世の中を騒がせた。世界各地でセミナーを開いては自殺方法を指南するなど、過激な活動や実際の幇助事例により自国で医師免許をはく 奪されて、近年はオランダに拠点を移している。
彼がグッダールの自殺の一切を取り仕切った翌2019年にスイスで立ち上げられたのがペガソス。ニチキともつながり があると言われ、スイスで外国人にも医師幇助自殺を提供するもっともラディカルな機関だ。
HPには「健康状態にかかわりなく、自分の死に方と死に時を選ぶのは健全な精神をもつすべての成人の権利だとペガソスは確信している」とのくだりがある。書類手続きが簡略で基準も緩いため、安楽死の「先進国」であるオランダからもペガソスに赴いて自殺した人もいる。健康だったので、オランダでは安楽死の法的要件を満たさないためだという。
そんな自殺ツーリズムの実態に当局も神経をとがらせて自殺幇助機関の医師たちと攻防を繰り広げているが、スイス医師会も2022年5月に新たなガイドラインを出して医師幇助自殺の規制を強化した。
事前に医師が患者と2回会うことや、患者は自分の苦しみが耐えがたいものであることを証明すること、さらにこれらがきちんと記録されることなどを求めた。健康な人への自殺幇助を防ぐのが狙い。
法的拘束力はないものの以下のように書かれており、年々件数の増加に伴って対象者が拡大するのみならず、自殺幇助が患者の権利と捉えられ、それが転じて医師の義務とみなされていくことへの強い危惧が感じられる。
……死にゆくことと死の管理における医師の真の役割とは、症状を緩和し、患者を支えることである。医師の責任の中には自殺幇助を申し出ることは含まれないし、また医師には自殺幇助を実施する義務もない。自殺幇助は法的には許されている行為だとしても、患者が権利を訴えられるような医療行為ではない。
(#5に続く)