陳舜臣さん、阪神・淡路8日後に寄稿文「神戸よ」 どん底の被災地に一筋の光 2月に生誕100年

陳舜臣さん(2005年7月撮影)

 阪神・淡路大震災から8日後の1995年1月25日、神戸新聞朝刊1面に「神戸よ」と題された寄稿が掲載された。筆者は神戸生まれ、神戸育ちで今年2月に生誕100年を迎える直木賞作家陳舜臣さん(1924~2015年)。脳内出血の後遺症のため、自由が利かない手で書かれた原稿は、愛する神戸に、人間味と温かみがある復興を成し遂げてほしいという願いが満ちあふれている。(井原尚基)

 陳さんは震災前年の94年8月、宝塚市で講演中に倒れ、95年1月13日に退院した。その後、神戸市灘区の自宅で被災し、京都市のホテルへ避難。原稿は神戸新聞社からの依頼に応じて「くずれた神戸のまちと罹災(りさい)した人たちへのメッセージのつもりで」(「神戸わがふるさと」より)記された。

 阪神大水害(38年)、神戸大空襲(45年)も経験してきた陳さんの原稿は「我が愛する神戸のまちが、潰滅(かいめつ)に瀕するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た」で始まる。人々が茫然(ぼうぜん)自失の中で復旧に取りかかり始めている姿に触れながら「再建の誓いを胸から胸に伝えよう」「神戸市民の皆様、神戸は亡(ほろ)びない」と訴えかける内容だ。

 「原稿用紙にむかって、不自由な手をうごかしながら、私はなんども涙を流した。こんな経験ははじめてであった。はじめは病後で気が弱っているせいかとも思ったが、連載小説開始の直前で、気はむしろ高揚している。やはり神戸をおもって、胸がしめつけられたのだ」(「神戸ものがたり」より)。

 一文字ずつ振り絞るように記された497文字の原稿からは、被災直後の悲しみが筆遣いから伝わってくる。

 完成した原稿は京都のホテルから神戸新聞社へファクス送信しようとしたものの、当時の通信事情により、何度再ダイヤルしてもうまくいかなかった。そのため、遠縁に当たるNPO法人「国際音楽協会」理事長の張文乃(ふみの)さん(83)=神戸市中央区=宅にいったん送信し、張さんが転送することによって神戸新聞社へ届けられた。

 ファクス原稿のコピーを所蔵する長男の陳立人(りーれん)さん(71)によると、舜臣さんは阪神・淡路大震災について「小さなころから育ってきた町だから、被災したことが悲しくて悲しくてしょうがない」と嘆いていたという。舜臣さんは後年「旧にかえるのではなく、新しい神戸をつくりあげることを望む。(中略)金儲(もう)けよりも、もっと大切なものがあることを、この震災によって知ったはずである」(「神戸わがふるさと」より)とも記した。

 張さんは「新聞に載った陳さんの原稿は、誰もがどん底に落ち込んでいたときに差し込んだ一筋の明るい光。神戸への誇りや期待を根底に持っていらっしゃったからこそ、もっと素晴らしい町にするんだという希望を多くの人に与えたのでしょう」と話す。

■「神戸よ」全文(1995年1月25日付朝刊より)

 我(わ)が愛する神戸のまちが、潰滅(かいめつ)に瀕(ひん)するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐという、激しい地震が、三つの災厄のなかで最も衝撃的であった。

 私たちは、ほとんど茫然(ぼうぜん)自失のなかにいる。

 それでも、人びとは動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに動いている。亡(ほろ)びかけたまちは、生き返れという呼びかけに、けんめいに答えようとしている。地の底から、声をふりしぼって、答えようとしている。水害でも戦災でも、私たちはその声をきいた。五十年以上も前の声だ。いまきこえるのは、いまの轟音(ごうおん)である。耳を掩(おお)うばかりの声だ。

 それに耳を傾けよう。そしてその声に和して、再建の誓いを胸から胸に伝えよう。

 地震の五日前に、私は五ケ月の入院生活を終えたばかりであった。だから、地底からの声が、はっきりきこえたのであろう。

 神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち。自然が溢(あふ)れ、ゆっくり流れおりる美(うる)わしの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。

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