鮎川義介物語⑪日産の満州進出を電撃発表

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・鮎川が満州重化学工業に参入する案件は極秘に進められた。

・日産の満州進出は日本と満州で同時に発表された。

・反財閥の風潮の中、鮎川は絶大な人気を博した。

「鮎川義介が満州の重化学工業に参入する」。

東京に出張していた星野直樹は、満州に戻って報告しました。満州国の関係者は賛同し、関東軍にも報告しました。星野はさらに、部下の岸信介に鮎川のプランを実現するよう、手助けしろと命じました。岸は商工省の工務局長から満州国総務庁次長に異動したばかりです。

「鉄は熱いうちに打たねばならぬ。君は、鮎川さんと同郷の山口なので、ぜひとも、鮎川さんと具体案を詰めてくれ」。

鮎川が満州重化学工業に参入する案件は極秘に進められました。星の命を受けた岸は、頻繁に新京から飛行機で東京へ出向きました。

新聞記者に発見されると、「別件でちょっと日本に立ち寄ったのだ」と隠し通しました。岸信介は新京からこっそり飛行機に乗りました。新京の空港から、立川までは軍用機で5、6時間です。新聞記者に見つからないように細心の注意を払い、日比谷に立っていた日産館に出向きました。

そこで、鮎川は岸を相手に持論を繰り返しました。

「私1人で行っただけではおそらく5分の1ぐらいの仕事しかできない。日産の資産と株主を連れていくからこそ、仕事ができる。ほかの事業会社は工場を持っていくのは大変だ。ましてや鉱山を持参することもできない。しかし、日産は持ち株会社である。株券だけを積んでいけばいい」。

岸は条件面を詰めるために、頻繁に、岸に会いました。ところが、この9月に鮎川は風邪で寝込んでしまいました。ほぼ1カ月間自宅で療養したのです。鮎川はかつて肺炎にかかったこともあり、風邪には特に留意していたのに、なぜひいてしまったのでしょうか。

当時、日中戦争が激化していました。日産では、子会社を含めると15万人が社員。このうち数千人が出征していました。日産では、こうした出征兵に対し、慰問状と慰問袋を送ることになったのです。印刷する予定でしたが、鮎川はその署名については自らすると主張。夜11時まで会社で仕事をした後、家に帰って筆をとりました。

しかも、それは単に署名するのではありません。この社員はいったいどんな仕事をしていたのか。どんな身分だったのか。いちいち、側近に聞いたうえで、何千枚もの慰問状を丁寧に書いていきました。それは明け方までかかる作業でした。部屋の中は底冷えします。ついに高熱を出して倒れたのです。

この間、協議は中断したものの、10月下旬、鮎川は病を押して飛行機で満州に旅立ちました。医者は止めていましたが、秘書を連れて横田飛行場から軍用機を使ったフライトです。

新京には、鮎川の懐刀である浅原常務が先に入っていました。新京のホテルは満室でしたが、浅原は鮎川の部屋については、風呂のついた高級ルームを用意しました。

2人はロビーで会いました。

「浅原君、君は風呂が好きか」

「はあ、好きですよ」

「それなら、君は僕の部屋に移りたまえ。僕は、風邪をひいているので、風呂には入らん。無駄だから変わろう」

「社長、そうおっしゃっても、風呂付の部屋の方がランクが上で、社長にあっていると思います」。

「いや、僕は無駄が嫌いだ」。

鮎川はさっさと荷物をまとめて、浅原の部屋に移ったのです。

10月29日。鮎川率いる日本産業が満州へ進出することが発表されました。日本と満州で同時発表です。これまで秘密裏に交渉が進んでいたのです。日産内部でも重役が知ったのは、発表の前日です。三井、三菱、住友など情報網のある財閥も、この情報をキャッチできなかったのです。

鮎川の満洲進出は、世間で喝采を浴びました。反財閥の風潮が高まる中、鮎川は絶大な人気を博したのです。

11月29日の臨時株主総会で、鮎川は「なんとなく、ふらふらとしているうちに決まりました。夢のようである」と述べています。

(その⑫につづく。

トップ写真:大連・沙河口の南満州最大の鉄道車両工場(20世紀初頭 ※写真と本文は関係ありません)出典:Photo by Culture Club/Getty Images

© 株式会社安倍宏行