つぶれた家から助け出した母、避難場所で体調急変し帰らぬ人に…阪神・淡路大震災で両親亡くした女性、語り部で命の重み伝える

阪神・淡路大震災の語り部として初めて講演する和氣光代さん=大阪府枚方市

 阪神・淡路大震災で両親を亡くした元中学教諭の和氣光代さん(56)=神戸市灘区=が語り部となり、自身の経験を伝え始めた。「災害に備え、命を大切に生きてほしい」。今月1日に起きた能登半島地震の被災地に思いをはせ、かけがえのない命の重みを問いかける。(上田勇紀)

外傷はほとんどなかった

 「お父さん、お母さん。あの日、何度も叫びました」

 昨年10月、約30人が集まった大阪府枚方市の総合福祉会館。和氣さんは、神戸市拠点の震災語り部グループ「語り部KOBE1995」の一員となって初めての講演に臨んだ。

 震災で父の西浜清さん=当時(57)=と母の貴子さん=同(54)=を亡くした。激震後、近くのマンションから夫と歩いて神戸市東灘区魚崎北町に向かうと、2階建ての実家が平屋に見えた。

 「助けて。ここよ」。押しつぶされた1階から母の声がした。夫と近所の男性が畳をはぎ、のこぎりで組み板を切って救出した。

 父は既に死亡。母は唇が紫色になっていたが、外傷はほとんどなかった。避難者で混み合う地域の会館に運んだ。

 「足がおかしい」「病院に連れてって」。母はしきりに訴えたが、会館には医師の姿もあった。近くの商店街では火災が起こり、むやみに動くことも危険と判断。会館にとどまり、水を飲ませて足をさすった。

 容体が急変したのはその日の午後。「突然、見たことのないような形相で苦しみだした」。医師は脈と瞳孔を調べた後、腕時計に目をやり、静かに告げた。「3時52分です」。異変からわずか15分。一度は助け出した母の最期だった。

子育てに励む日々

 3カ月がたったころ。和氣さんは両親の位牌の前に座り込むようになった。母の死因は「圧死」とされたが、長く圧迫されて壊死した部位の毒素が、救出後に体内に回る「クラッシュ症候群」のことを知った。「あのとき病院に行っていたら」。後悔を反すうした。

 震災2年後に長女、7年後に長男を出産。命のぬくもりに触れ、子育てに励む日々が少しずつ前に向かせた。震災から10年がたち、神戸市の中学校家庭科教諭として経験を生徒に語れるようになった。

 「語り部KOBE1995」の代表で、震災で母と弟を亡くした長谷川元気さん(37)=神戸市垂水区=から手紙を受け取ったのは震災20年の冬。「悲しみと向き合い、一歩を踏み出す手助けができれば。一緒に活動しましょう」。東日本大震災で家族を亡くした人たちへの思いもつづられていた。「こんな活動があるんだ」。昨年春の早期退職をきっかけに参加を決め、夏からメンバー入りした。

もうすぐ父に追いつく

 能登半島地震の報道に接すると、29年前の生々しい記憶がよみがえる。「災害で命を落とし、生きたくても生きられなかった人がいる。その人たちに恥ずかしくないように生きていきたい」と和氣さん。2年前に母の年齢を超え、もうすぐ父に追いつく。「いつか天国で両親に会ったとき、『がんばったやん』と声をかけてもらえたら」

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