ダム決壊し114人死亡 京都・亀岡で小学生が初の校区外学習「水害への理解深まる」

平和池ダムがあった谷や排水設備を操作した小屋(左奥)について、中尾さんの説明を聞く4年生=亀岡市古世町

 1951年に地域を襲った京都府亀岡市の平和池水害について毎年学習している詳徳小学校(篠町柏原)4年生が、今年初めて校区外に活動を広げ、決壊した平和池ダム跡地や氾濫した年谷川の旧流路を見学した。2023年11月にあった学習発表会では、撮影した写真を交えて保護者らに水害の悲惨さを伝えて「平和池水害を忘れない」と力を込めた。

 同水害では114人が犠牲になり、年谷川下流の柏原地区だけで75人が亡くなった。同小学校では4年生が総合的な学習の時間として、慰霊塔や公民館の防災倉庫などを訪れて学んできたが、活動は校区内に限られていた。発生から70年以上が経過し、学習内容を充実させようと、今年は校外学習の範囲を広げた。

 校外学習は10月中旬にあった。ダム跡地は、「平和池水害伝承の会」の中尾祐蔵さん(79)=篠町柏原=らが案内した。児童たちは立ち入りが制限されている林道を進み、草木が生い茂る池跡や、構造物として唯一残る排水設備を操作した小屋をじっくり観察していた。

 参加した児童(10)は「ダムが想像していたより深かった。(そこから流れ出たと推定される)20万トンの水というのはとても多いと思った」と話した。

 年谷川では、水害後に直行させる改修工事で生じた川の跡地を歩いた。旧流路はたびたび氾濫する要因になった蛇行した形状をしており、児童たちは、現在は畑になっている長く湾曲した土地の形を確かめ、かつての川の姿を想像していた。

 11月3日に同小学校であった学習発表会では、授業で平和池水害を学ぶ児童の疑問に4年生が答えるという劇形式で実施した。

 昔と今の地図を見比べて年谷川の形が変わっていることに気付いた児童に対して「水害が起きる前は川だったところは、畑になりました。水害が起きないように川の形が真っすぐになりました」と、現地で確かめた様子を紹介。ダムについて「たまった水を流そうとしたら土や泥がつまって、だんだん水がたまってしまった」と、撮影した写真をスクリーンに映しながら決壊理由を説明した。

 発表会を見守った中尾さんは「見てきたことを分かりやすく伝えてくれた」と喜び、「災害の元凶だったダムの跡地を見てもらうのは念願だった。体感することで、水害への理解がより深まる」と記憶の継承に期待していた。

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