「人でなし!」焼き芋売りが被災者に怒鳴られた日 震災で見た人の冷たさ、温かさ 落語家・桂福丸の原点

阪神・淡路大震災の記録映像とともに被災体験を語る桂福丸さん=神戸新開地・喜楽館

 地震の後に火事が起きる。ヘリコプターとサイレンの音だけが聞こえ、まちから喧騒(けんそう)が消えていく。能登半島地震の映像を見ていると、「あの日」と同じような感覚になりますね。

 落語家桂福丸さんが淡々と語り始めた。あの日-1995年1月17日、神戸市東灘区で阪神・淡路大震災に遭った。昼ごろ、避難先の本山第二小学校で怒号が響いた。

 学校近くに焼き芋の屋台が来たんですよ。そのおっちゃんが、子どもの拳くらいの焼き芋を1個2千円で売り始めて。

 「人でなし!」「何考えてんねん!」。被災者が怒鳴っていました。その横で、いつ物資が届くか分からないから買う人もいた。おっちゃんは無表情で売り続けました。当時、私は灘高校1年生。すごい光景を見ましたよ、えぇ。

 東灘区では1470人が亡くなった。市内9区で最も多かった。両親と9歳下の妹は無事だったが、マンションは半壊した。

 明け方、がががが、という工事現場みたいな音がして、家ごと振り回されているようでした。「生きてるか」って両親と妹が寝る和室に叫びました。部屋は真っ暗で、本や洋服、あらゆる物が散乱していた。ようやく部屋から出たら、成人男性3人分くらい、だいたい200キロのアップライトピアノが倒れていた。

 近所にあった、あれはアパートだったか、一軒家かな。大学生くらいのきょうだいは無事だったけど、1階のご両親はぐちゃぐちゃのがれきの下にいた。「ここやー」って1メートル先からくぐもった声が聞こえた。でも、家ごとつぶれた中から人を救うなんて、重機もないしむちゃなんです。うん、朝は絶対に生きてはったけど、2人は命を落とされたようです。

 避難生活はおよそ1カ月。家族4人、川の字で寝るのが精いっぱいだった。この間、断続的に余震が続いた。国土交通省によると、有感地震は1月だけで計230回に上ったという。

 思い出すだけで身の毛がよだつ。余震は揺れる前に地面の底が「ごぉぉぉ」とうなり、「ドーン!」と音がして激しく揺れる。地震だけでも怖いのに、余震が何十秒おきに続くんやから、気も休まるはずがない。

 小さな芋を売りに来たおっちゃん、大きな鍋でカレーやみそ汁を作り、風呂にも連れて行ってくれたご近所さん。一つの避難所に、人の冷たさと温かさが詰まっていた。それで漠然と思ったんです。「人を幸せにする仕事がしたい」って。

 これが、僕の原点です。(聞き手・千葉翔大)

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 東灘区出身の桂福丸(本名・中野正夫)さん(45)は「震災の記憶を風化させないため、伝え方の工夫が必要」と語り講演や落語を通じて防災を伝える噺(はなし)家だ。その原点となった「あの日」から29年を前に、震災について語ってもらう。

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