江戸時代の記録200年分、なぜ文化財ではない? 「弘前藩庁日記」 正確な冊数不明、保存に支障なし

1661(寛文元)年6月3日から始まる1冊目の弘前藩庁日記
文化財指定に向け、弘前藩庁日記の冊数確定作業をする弘前市教育委員会文化財課の担当者たち
弘前市立弘前図書館に収蔵されている弘前藩庁日記

 江戸時代初期から幕末までの200年以上にわたり、弘前藩の日々の出来事を書きつづった「弘前藩庁日記」。参勤交代で藩主が行き来した江戸や米の取引があった上方の様子も記録しており、津軽地域のみならず日本近世史を研究する上での一級資料とされる。だが、全国各地の藩日記の多くが文化財に指定されている一方、弘前藩庁日記は文化財ではない。一体なぜだろうか。

 弘前大学の瀧本壽史(ひさふみ)特任教授(日本近世史)が要因に挙げるのが、膨大な冊数。文化財指定に必要な、冊数の確定にかかる手間が障害になってきたという。正確な数は不明だが少なくとも4500冊以上に上り、「八戸藩日記」(559冊)の8倍以上だ。

 200年以上の長期間、これほど網羅的、組織的に情報を集めた藩日記は全国でも数少ない。江戸時代にあった約260藩のうち、弘前藩庁日記ほどの網羅性がある藩日記が残っているのは「1割に満たない」(瀧本特任教授)という。

 膨大な情報の処理に苦労していたのは当時の弘前藩も同じ。瀧本特任教授によると、たびたび担当する役人を増やし対応したが、清書が追いつかない時期があったほどだという。清書が40年分も滞っていた時期もあった。

 詳細な記録の背景には当時の社会の在り方が関係している。江戸時代は先例が何より重んじられ、藩は意思決定の際にたびたび日記を参照していた。日記は当時の政治運営で重要な役割を果たしていた。

 日記の保存状態は良好だ。弘前市教育委員会文化財課の小石川透課長補佐は「あえて文化財にしなくても、保存に支障がなかったことも文化財になっていない理由」と話した。同市立弘前図書館に収蔵されている原本を手に取ると、しっかりとした作りの和紙に、力強く大きな文字が記されている。崩し字さえ読めれば読解に支障はなさそうだ。

 国日記は御朱印や系譜図といった津軽家の支配の正統性を示す文書を置いた弘前城の二の丸御宝蔵(ごほうぞう)で保管し、その後弘前図書館に移した。一方、江戸日記は江戸で頻発した火災を避けるため、弘前に送った。1945年8月には戦災による焼失を恐れ、江戸日記を天守に移したこともある。

 現在、文化財課の職員を中心に冊数の確定に励んでいる。昨年7月初旬から作業を始め、本年度末に終えるのが目標という。

 県内では既に「八戸藩日記」が八戸市有形文化財になっている。小石川課長補佐は「弘前藩庁日記が文化財ではないのはバランスに欠ける。文化財指定に向け作業を進めたい」と話した。

 日々の出来事を記した藩日記は多くの藩が作っていた。ただ、藩日記を基に正史の編纂が終わると、藩日記を廃棄する場合が多かった。弘前藩が膨大な藩日記をそのまま残した理由について瀧本特任教授は「弘前藩が担った蝦夷地(えぞち、北海道)警備が関係している。詳細な藩日記を残すことは『北狄(ほくてき、北方民族に対する蔑称)の押さえ』としての藩のアイデンティティーと(領域)支配の確立に向けた統治政策の一つだった」と話した。

 弘前藩とアイヌとの関係について研究する瀧本特任教授は自説を論証するに当たり「藩日記を書き始めたのが(アイヌの首長)シャクシャイン蜂起があった寛文年間であることが示唆的だ。また、時代を下るごとに蝦夷地警備の記事が多くなる」と語った。

 軍事費が財政支出の約2割を占め、東北諸藩の中で北方警備に最も熱心だった弘前藩。北方(対アイヌ、対ロシア)の防衛に重要な役割を果たしていると幕府にアピールすることで、幕藩体制内での地位上昇を勝ち取った。軍事貢献の見返りに石高10万石の有力外様大名へと昇格。落雷で焼失した弘前城天守の再建も果たした。

 膨大な藩日記を残したのは、蝦夷地警備の最前線を担った弘前藩、盛岡藩のほか八戸藩、対馬藩、鳥取藩など中央から離れた外様藩が目立つ。瀧本特任教授は「生き残りのために過去の事例を蓄積し、幕藩体制の中で自藩をしっかりと位置付ける必要が多かったのだろう」と推測する。

 ◇

弘前藩庁日記 1661(寛文元)年6月、弘前藩中興の祖とされる4代信政が初めて江戸から弘前に入った時から、明治維新直前の1868(慶応4)年3月までの約200年間にわたり書いた藩政に関する記録文書。「日記」といっても私事ではなく、藩庁に寄せられた情報を集約したもので、現在の公文書に近い。弘前藩内の出来事を記録した「国日記」と江戸での幕府や諸大名との交流を書いた「江戸日記」に分かれる。最古とされる約300年前のねぷた記録が登場する文献としても知られる。

© 株式会社東奥日報社