バンカーたちの1.17 家族より会社「すぐに行かなきゃ」 旧第一勧業銀行神戸支店 近代建築の傑作が崩壊した日

【1995年】阪神・淡路大震災で倒壊した第一勧業銀行神戸支店=1995年1月17日

 神戸を代表する近代建築が、かつて金融街・栄町通にあった。第一勧業銀行(現みずほ銀行)神戸支店。1995年1月17日、阪神・淡路大震災で倒壊した。同支店は1873(明治6)年、日本初の銀行「第一国立銀行」の開業と同時に設置された歴史があり、「日本最古の銀行支店」という伝統と格式を誇った。余震の中、がれきとなった名建築から重要書類を運び出し、地域経済の血流を守ろうと奮闘した行員たちがいた。(肩書は当時)

■ランドマーク

 頑丈なスチール机は中央部が押しつぶされて「く」の字にひしゃげ、原形をとどめていなかった。

 神戸支店渉外第1課長の江守洋一さん(66)=東京都=は震災直後、自席の場所を確認して息をのんだ。石材やれんがが散乱する中、ぺしゃんこになった机がわずかに見えた。「発生が2時間遅かったら、私は確実にあの席にいて、大きな石の直撃を受けていた」と、震災当日を振り返る。

 直後の写真が、倒壊の衝撃を物語る。大きな石柱の破片や石材が積み重なり、栄町通をふさいだ。倒壊より「崩壊」に近かった。

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 激震の瞬間、江守さんは神戸市垂水区の社宅で出社準備中だった。家族の安全を確かめると、午前6時過ぎにはマイカーを発進させた。「責任があるから、すぐに行かなきゃと。当時は家族より、会社を優先するのが当たり前だったから」

 本店から神戸に転勤したのは、震災の半年前。妻の美和さん(65)は、娘の小学校に防災頭巾がないことに驚いた。「東京では必需品。神戸は地震がないんだと安心した」と振り返る。

 車での得意先回りが多かった江守さんは、神戸の道路地図が頭に入っていた。渋滞する幹線を避け、裏道を駆使して東へ。須磨や長田では火災現場の脇をすり抜け、垂れ下がった電線を引きずりながら先を急いだ。支店に着いたのは、午後3時を過ぎていた。

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 巨大な柱「ジャイアントオーダー」が6本、力強く前面に立つ。高さは9メートル。御影石を一本丸ごと切り出し、据え付けたという。

 「表現力や美術的価値など、日本における近代建築の傑作の一つだった」。歴史的建造物の保存活用を推進する「港まち神戸を愛する会」事務局長の中尾嘉孝さん(53)は、倒壊した神戸支店をこう評価し、惜しむ。

 建物は旧三井銀行神戸支店として、1916(大正5)年11月に完成した。設計は数々の銀行建築を手がけた長野宇平治(うへいじ)。東京駅などで知られる近代建築の父・辰野金吾の弟子だ。地下と1、2階の3フロアで、延べ床面積は約1500平方メートル。骨組みを鉄骨で造り、内側にはれんが、外側には石を張る、当時としては最新の工法が採用された。

 銀行や商社が軒を連ね「東洋のウォール街」と呼ばれた栄町通でも、支店の建物はひときわ目立った。当時の日本は第1次世界大戦の好景気に沸いていた。神戸拠点の商社「鈴木商店」は翌年、三井を抜いて売上高日本一に駆け上がった。

 太平洋戦争中の43(昭和18)年、戦時経済統制の一環で第一銀行と三井銀行が合併し帝国銀行となった。これに伴い、三井銀の神戸支店が帝銀の支店となった。戦後に再び分離した際、第一銀の支店となった。

 「支店だが、本店に匹敵するレベルの建物だった」と中尾さん。平成の時代でも、役員が支店長を務める数少ない店だった。3人の副支店長に7人の課長、行員の総勢は80人を超えた。

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 1月17日の朝、入行3年目の若手も支店に急いだ。江守さんの部下、宮崎泰明さん(54)=現みずほ銀行ひばりが丘支店長。神戸で生まれ育ち、神戸大で学んだ。第一勧銀でも神戸支店に配属。地元のために働ける誇りを持ち、灘区や東灘区の中小企業を担当した。

 西宮・甲子園の単身者寮で激震に襲われた。先輩の車に乗って西を目指す途中、目を疑う光景が飛び込んできた。(高見雄樹)

【第一勧業銀行神戸支店】日本初の銀行、第一国立銀行神戸支店として1873(明治6)年7月20日に営業を始めた。1908(同41)年には辰野金吾が設計した赤れんがの新支店が栄町通4に完成した。一方、16(大正5)年に辰野の弟子、長野宇平治の設計で栄町通3に新築されたのが三井銀行神戸支店だ。両行は戦時経済統制で43(昭和18)年、帝国銀行となり、神戸支店を三井の支店に置いた。終戦後に両行が再び分離しても、第一が三井の建物を使い続けた。71(同46)年の第一勧業銀行発足後も、栄町通のシンボルとして愛された。一方、辰野が設計した赤れんがの建物は大林組の神戸支店として使われ、現在も地下鉄みなと元町駅の出入り口に外壁が残る。

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