大河『光る君へ』円融天皇と詮子の対立 皇子生んでも皇后になれず…理由は小さなことだった? 識者語る

NHK大河ドラマ「光る君へ」第2回は「めぐりあい」。円融天皇とその女御(高位の女官。皇后や中宮に次ぐ)・藤原詮子(吉田羊)の姿が描かれました。藤原詮子は、藤原兼家の次女でした。母は時姫。生まれは、応和2年(962)。藤原道長(詮子と同父母)は966年生まれですので、4歳年上の実姉ということになります。詮子が円融天皇の女御となったのは、天元元年(978)、16歳のことでありました。平安時代の歴史物語『栄花物語』は、詮子を「美しい」と記しています。 円融天皇と詮子との間に産まれたのが、第1皇子の懐仁(後の一条天皇)です。

一条天皇が産まれたのは、天元3年(980)のことでした。円融天皇には、詮子の他にも女御がいました。藤原遵子です。遵子の父は、関白・藤原頼忠。遵子が女御となったのも、詮子と同じ978年のことです(遵子は、同書によると、詮子ほどの器量ではなかったとのこと)。前述のように、詮子は円融天皇の子を産みますが、遵子は子を産むことはありませんでした。詮子の懐妊を、遵子の父・藤原頼忠は不快に思っていたようですが、自身が関白職であり続ければ、主上(円融天皇)はいずれ娘を皇后(中宮)としてくれるだろうと内心感じていたようです。

詮子や父の兼家は、円融天皇の皇子を産んだのだから「詮子こそ、いずれ皇后に」と思っていたかもしれませんが、そうはなりませんでした。天皇は、詮子が実家の邸(東三条邸)にばかり赴き、参内せぬのを快く思っていなかったご様子。よって「遵子を皇后に」と考えられ、ついに立后となります(982年)。当然、詮子の父・兼家はそれを不満に思います。世間の人々も、天皇の決断を不審に感じたようで、皇子のいない女御が皇后となったこともあり、遵子のことを「素腹の后」と失礼な呼び名で呼んだそうです(『栄花物語』)。

兼家は天皇の決断を不快に感じ「今度のご叡慮(天皇の考え)こそ、誠に心憂きこと。これほど、世間の物笑いの種となっては出家でもしたい」とまで思い込んだといいます。ヘソを曲げてしまった兼家は、門を閉ざし、その子息たちもまた儀式にも参列せず。天皇は詮子に毎日のように使いを遣わしますが、返事もほとんどしなかったそうです。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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