あの日救えなかった命 神戸でとんかつ店経営の父が毎年続けた追悼 遺志継ぐ息子「今年も続けるで」

磯谷吉夫さんの写真を手に、阪神・淡路大震災後の歩みを振り返る妻の香代子さん(右)と長男の太朗さん。オレンジのシャツはとんかつ店で着ていたもの=神戸市灘区稗原町

 神戸市灘区にあった一軒のとんかつ店が2022年6月、惜しまれながら閉店した。店主の磯谷吉夫さんが阪神・淡路大震災で1億円超の借金を抱え、再起を期した店だった。その吉夫さんが毎年1月17日未明に欠かさず続けたこと。それはあの日助けられなかった人たちの家の跡地を回り、手を合わせること。今は息子たちが父の遺志を継ぎ、夜明け前の街を歩く。今年の1月17日も。(勝浦美香)

 閉店したのは、JR六甲道駅近くにあった「ながた園 六甲店」。吉夫さんが震災の後に新規オープンさせた。

 1995年1月17日。建てたばかりの自宅は斜めに傾いた。当時経営していたとんかつ店4店のうち2店も全壊した。

 自宅のローンも、店のローンもある。残った2店の売り上げで返していけるのか。従業員を路頭に迷わせるわけにもいかない。吉夫さんが下した決断は周囲を驚かせた。「さらにお金を借りて、もう1店増やす」

 残った2店をまず再開し、2年後に「六甲店」を新設した。借金返済のため、元日以外は休まず働く日々が始まった。

 「不思議と、借金のことは不安に思わなかった」。吉夫さんの妻、香代子さん(70)は振り返る。「お父さんはいつも、周りの人にめちゃくちゃ優しかった。だから、私も一生懸命手伝った」

 震災後、炊き出しを手伝ったり、支援物資を車で配ったり。「こんな時こそ温かいご飯を食べて」と、店の再開後はランチを格安の500円で提供した。

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 震災翌年の1月16日、当時小学5年だった長男の太朗さん(40)=兵庫県加古川市=は吉夫さんに告げられた。「明日は朝早いぞ」。よく分からぬままに早起きし、後をついて歩く。線香を持ち、ところどころで手を合わせて父はぽつりとつぶやいた。「ここにも助けに来たんやけどな」

 翌年もその翌年も同じことを繰り返すうち、太朗さんは少しずつ父の忘れがたい記憶を知るようになった。

 あの朝、一家は幸いにも無事だったが、アルバイト店員が血相を変えて走ってきた。「お母さんが埋まっとる。火も出とる」。吉夫さんは慌てて自宅を飛び出したものの救助の手だてはなく、店員の母親は炎にのまれたという。

 それだけでない。近所の幼い子ども。果物店のおばあちゃん。助けられなかったことを父はずっと悔いていた-。

 吉夫さんががんで亡くなったのは2021年の秋。71歳。1億円を超える借金をようやく完済し、これから少し休めるかな、そう考えていたころだった。震災後に経営した3店のうち1店はすでに閉めており、吉夫さんが勝負をかけた六甲店もたたむことに。残る1店は店員の一人が引き継いでくれた。

 この29年で大きく変わった街の風景。太朗さんは今も地震が発生した1月17日の午前5時46分に合わせ、亡き父と一緒に歩いた道を巡る。弟の二朗さん(33)や太朗さんの幼い子どもたちが参加することも増えた。空き地やマンションとなった場所にしばし線香を手向け、手を合わせる。

 「景色は変わり、高齢化も進んだ。でも、こうやって毎年歩けば記憶が薄れることはない。お父さん、今年も続けるで」。遺影の吉夫さんに、太朗さんはほほえみかけた。

【特集】阪神・淡路大震災

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