台湾近代化と歩んだ老舗書店が閉店、創業家と台湾の深い縁は「プレステ」の成功につながった

1930年代の台北で店を構える新高堂書店(右)

 東京・中目黒駅前にある「新高堂(にいたかどう)書店」が昨年末閉店した。一見すると、どこにでもある小さな「街の本屋」だが、日本統治下の台北にルーツを持ち、創業125年を誇る老舗だった。近代化の道を歩み始めた台湾で出版業界の礎を築き、創業家は敗戦とともに日本へ引き揚げ焼け野原だった中目黒で再び看板を掲げた。

 波乱に満ちあふれた創業家の軌跡をたどると、ソニーグループの家庭用ゲーム機「プレイステーション」の成功にもつながる日台の絆があった。(共同通信=西川廉平)

閉店イベントを行う新高堂書店=2023年12月30日、東京・目黒

 ▽台湾最大の書店
 創業者の村崎長昶(ながあき)さんは熊本で生まれ、1895年に台湾初代総督の樺山資紀氏らに同行して台湾へ渡った。同じ年の6月、清国から日本へ台湾を引き渡す式典が基隆港沖の船上で行われた。それにも参加し、日本統治時代の幕開けから立ち会った。

 村崎さんの手記には「その勇ましき光景は終世忘れられぬ壮観であった」と記されている。3年後の1898年に立ち上げた新高堂は文房具の販売から始まり、その後書籍販売や出版にも事業を広げた。店名は台湾島で最高峰の「新高山(にいたかやま)」(現・玉山)にちなんだ。総督府近くの目抜き通りに店を構え、日本本土の書籍を販売したほか、小学校や台湾人向けの公学校が使う教科書を独占的に取り扱い、植民地での日本語普及に合わせて事業を拡大。台湾最大の書店に発展した。

 事業家として成功した村崎さんは地元の名士として、書籍業界団体のトップや台北市議などの要職を務めた。台北で生まれた孫の恭子さん(86)は「店舗2階でかくれんぼをして遊んだのをよく覚えている。お手伝いさんも大勢いて、当時の生活は楽しい思い出しかない」と振り返る。

 そんな村崎家の栄華も日本の無条件降伏とともに一転し、一家11人は土地や株券などほぼ全ての財産を置いたまま、基隆港から日本へ引き揚げた。

 ▽焼け野原からの再出発
 とはいえ本土には帰る家もなく、親類の家を転々とする日々を過ごし、村崎さんは「引き揚げ者の情けなき境遇を痛感した」と手記に残している。その後、1948年ごろに空襲の焼け跡が残る東京・中目黒で小さな土地を確保し、新高堂書店はゼロから再出発した。

 2010年からは創業者のやしゃごにあたる梅田美音さん(48)が5代目店主を務めた。周辺の様子は終戦直後とは様変わりし、店舗はタワーマンションのそびえる中目黒駅前の再開発エリアに入った。

 米ニューヨークでアートを学んだ梅田さんは「小さい頃にたくさん良い本に触れてほしい」と、絵本や児童書の品ぞろえを充実させながら地元密着の店舗運営を続けてきた。だがデジタル化の波には抗えず、近年は赤字が続き「このまま経営している方が先祖に申し訳ない」と、閉店を決意した。

東京・目黒の新高堂書店の5代目店主、梅田美音さん=2018年12月26日

 ▽プレステと台湾
 営業最終日となった昨年12月30日には親族一堂が集まり、閉店の瞬間を見守った。その中には、ソニーの元役員でプレイステーションの生みの親として知られる久多良木健さん(73)の姿もあった。

「プレイステーション2」と「プレイステーション・ポータブル」を発表する久多良木健氏=2004年9月、東京都千代田区

 久多良木さんの祖父は村崎家から養子に出たが、台北時代の新高堂で支配人をしていたという。久多良木さんの父親は台北帝国大学で林業を学び、卒業後は台湾総督府に勤めた。台湾は良質なヒノキに恵まれ、林業は当時の主要産業の一つだった。

 久多良木家は引き揚げ後、東京都江東区の焼け野原に居を構えた。1950年に生まれた久多良木さんは「毎日食べるものにも困るほど苦しく、闇市で買ったものを家族で分け合って食べた」と幼少期の記憶を思い返す。父親は林業の知識を生かして東北の山林に分け入り、住宅再建用の木材を東京の木場に送って生活費を得ていたという。

 久多良木さんはエンジニアとして活躍したソニー時代も、台湾と深い縁があった。プレイステーションはリアルな映像を作り上げるため、台湾出身のジェンスン・フアン氏が率いる米半導体大手エヌビディアの画像処理半導体(GPU)を採用し、ゲーム機本体の生産は台湾の電子機器大手ASUS(エイスース)に委託していた。

 今や人工知能(AI)時代の寵児となったフアン氏らとは公私にわたって交流があり「彼らは私のルーツが台湾にあると知っていて、家族のように接してくれる。私自身も台湾に行くと故郷のようにほっとする」と話す。

閉店後に記念撮影する新高堂書店の創業家一族。中列左から2番目が久多良木健さん、3番目が村崎恭子さん=2023年12月30日、東京・目黒

 ▽新たな「国語」
 村崎家が去った後、台北の旧新高堂は政治情勢の変化とともに別の運命をたどった。台湾は戦勝国である中華民国の一部となり、大陸から渡ってきた国民党関係者が建物を引き継いで「東方出版社」を新設した。主に児童向け書籍を手がけ、日本語に代わり新たな「国語」となった中国語(北京語)や、中華文化を浸透させる役割を担った。児童雑誌「東方少年」など、一定年齢以上の台湾人の多くは東方出版社の本に触れて育ったと言われる。

台北市の新高堂書店跡地に建つビル。東方出版社の看板が掛かっている=2018年ごろ(新高堂書店提供)

 東方出版社の立地する重慶南路は台北随一の書店街に発展する一方、植民地時代の影響を排除しようと、戒厳令下で日本語の書籍は厳しく取り締まられた。国民党独裁政権による政治弾圧「白色テロ」で10年間投獄され、後に日本漫画を数多く台湾社会に紹介した故蔡焜霖(さい・こんりん)氏も1960年代の一時期、東方出版社に編集者として在籍していた。

 ▽つながりを残して
 店主の梅田さんによると、中目黒の新高堂は閉店間際になると、SNSで情報を知った台湾からの来客が突然増え、営業終了を惜しむ声をかけられたという。今後について、梅田さんは「台湾や本とのつながりを残したカフェとして再出発したい。先祖から受け継いだ『新高堂』の屋号も使い続ける」と話す。業態転換のアイデアは久多良木さんからもらったといい、今夏の開業に向けて現在、クラウドファンディングで資金を募っている。

営業最終日を迎えた新高堂書店=2023年12月30日、東京・目黒

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