「神戸は強い!」名実況生んだマヤノトップガン 数々のレコード塗り替え、震災で弟失った馬主と被災地を鼓舞

阪神・淡路大震災が起きた29年前の菊花賞を制したマヤノトップガンと馬主の田所祐さん(左)=1995年11月5日、京都競馬場

 阪神・淡路大震災が起きた1995年、栗毛の牡馬が競馬のG1レース菊花賞を制した。その名は「マヤノトップガン」。神戸の馬主が地元の山にちなんで名付けた馬だった。実況アナウンサーの叫び声を記憶している人もいるだろう。「神戸は強い!」。その強さが傷ついた被災地と、震災で弟を失った馬主を勇気づけた。(井上太郎)

 馬主は神戸市灘区の阪神大石駅南にある田所病院の当時の院長、田所祐さん。「マヤノ」は田所さんが幼い頃から親しむ神戸の摩耶山から付けた冠名だった。

 期待のトップガンがデビューして、わずか9日後の95年1月17日。未明の大地震で病院は一部損壊する。患者のためにがれきの山をかきわけて薬剤を探しながら、転院の手配に追われた。

 何よりつらかったのは、副院長だった弟の順さん=当時(63)=を亡くしたこと。全壊した灘区の自宅に火の手が回り、妻とともに命を落とした。

 優しい性格で患者からも慕われていた順さん。いずれ病院を託すつもりでいたのに…。右腕として支えてくれた弟との別れ。病院が通常の受け入れ態勢に戻るのにも1年を要した。 ◇    ◇

 失意の田所さんを励ましたのが、マヤノトップガンだ。地震の年の11月5日、青空の京都競馬場。芝3000メートルの菊花賞で、それまで重賞未勝利だった愛馬が最後の直線を抜け出す。

 全身からほとばしる闘争心。その日のトップガンは近寄りがたい雰囲気だったと田所さんの娘、英子さん(74)=神戸市東灘区=は言う。「普段は優しい目をしているのに、レースが終わってからもギラギラと鋭い目つきでした」

 前年の三冠馬ナリタブライアンの持つレコードを塗り替える会心の走り。どよめくスタンド。数々のレースで名ぜりふを残してきた関西テレビのアナウンサー杉本清さんは言葉をつないだ。「神戸は強い!」「今年は神戸だ!」

 勢いは止まらない。マヤノトップガンは暮れのグランプリレース、有馬記念も優勝。「弟が天国で祈ってくれたのかなあ」。田所さんは賞金の一部を震災義援金として寄付する際、そう言って思いをはせた。

 95年の年度代表馬に選ばれると、翌96年には復旧した阪神競馬場(兵庫県宝塚市)で「震災復興支援競走」として開催された宝塚記念を制す。97年春の天皇賞は大外一気の末脚でライバル2頭を差し切った。世界レコードを更新するこの鮮烈なレースを最後に現役を退き、引退式には5万人のファンが詰めかけた。

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 震災からちょうど10年後の1月、田所さんは他界。80歳だった。

 オーナー亡き後、トップガンは京都競馬場のメモリアル行事に出演した。高齢だったが、北海道からの長距離輸送をものともせず、凜(りん)とした力強い足取りで大役を務め上げた。その姿に英子さんは涙がこみ上げたという。「父もきっと喜んでいる」。19年11月、トップガンは老衰のため27歳の天寿をまっとうした。

 29年前、一瞬にして変わり果てた街。その街で少しずつ立ち上がろうとした人々。「神戸は強い」-。復興と足並みをそろえるように成長曲線を描いた愛馬の記憶は、いつまでも色あせない。

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