能登出身者が多数働く神戸の酒造会社「守ってやらな…」 元日の地震でいち早く支援、胸中に29年前の悔恨

能登半島の地図を見ながら、被災時の様子を語る竹澤茂さん(左)。剣菱酒造の藤田雄一さんも思いを聞き続けた=神戸市東灘区深江浜町(撮影・高田康夫)

 石川県・能登地方からは毎年冬になると、酒造りに携わる職人たちが全国の酒蔵に働きに出る。灘五郷の酒造会社「剣菱酒造」(神戸市東灘区)も受け入れ先の一つだが、元日の地震で彼らの故郷は大きな被害を受けた。すぐに物資の提供や避難家族の受け入れを決めた同社。いち早い支援の背景には、29年前の阪神・淡路大震災で2人の能登出身者を亡くした悔恨があった。(綱嶋葉名)

 能登地方は日本四大杜氏の一つ、「能登杜氏」の里として知られる。蔵を取り仕切る杜氏は同郷者を蔵人として連れて行った歴史があり、剣菱酒造には今も多くの能登出身の蔵人が冬場の約半年間、泊まり込みで酒造りに励んでいる。

 この冬、同社で働いていた出身者は社員と蔵人の計22人。地震のあった元日は20人が出勤し、残る2人は帰省中だった。

 精米を担当している竹澤茂さん(74)は、休暇で石川県珠洲市の自宅にいた。高台にあった家は揺れに耐え、津波も免れたが、古里の風景は一変。流れた船や車があちこちに見え、夏場は漁業をしている竹澤さんの漁船2隻も壊れた。いとこ夫婦の自宅は全壊し、亡くなった。

 孫娘が体調を崩し、一家は一時的に被災地を離れる決断をした。名古屋に暮らす娘夫婦宅に家族を預け、ひとり神戸に戻った竹澤さん。「能登のことを思い出すと涙が出てしまう。今年は祭りもできないだろう。復興まで何年かかるのか」と不安げに話す。

 神戸にいた蔵人らも10人が能登へ向かった。「家が津波に流された」「家族が生き埋めになり、助け出された」「地震で全てつぶれた」…。同社は水や食料、ガソリンなどをかき集めて彼らに持たせた。

 蔵人に寄り添い、支援を取り仕切っているのが、同社醸造部長の藤田雄一さん(54)。被災地から家族を伴って神戸に帰ってきた蔵人のために、宿舎の空き部屋を用意。すぐに3家族が入居した。

 藤田さんには、忘れたいのに忘れられない29年前のつらい記憶がある。阪神・淡路大震災だ。

 同社は七つの蔵が倒壊した。発生時はまさに早朝の仕込み作業中で、藤田さんは蔵から飛び出したが、同僚4人が大きなはりの下敷きになるなどして亡くなった。そのうち2人は能登出身者だった。入社3年目だった藤田さんは遺体を京都まで運び、そこで能登の家族に引き渡したという。

 亡くなった蔵人の無念を思う。その後も出身者たちは変わらず剣菱の酒造りを支えてきてくれた。今、彼らの故郷が苦境に立たされている。「守ってやらなあかん」。藤田さんは言った。

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