地震で両親奪われ「世界一不幸」になった小学生、29年を経て「幸せ」に 人々の支えと7年間の愛情に感謝

アルバムをめくり、亡くなった両親への思いを語る前田健太さん=滋賀県草津市(撮影・斎藤雅志)

 阪神・淡路大震災のことは、ずっと話したくなかった。胸が苦しくなるから。泣いてしまうから。両親を亡くしたのは7歳のとき。自分を「世界一、不幸」だと思ったこともある。でも、今なら話せる。伝えたい、と思う。(中島摩子)

 前田健太さん(36)=滋賀県草津市=は当時、兵庫県西宮市立北夙川小の1年生だった。会社員の父隆さん=当時(55)、母昌子さん=同(43)、高校2年の兄と同市石刎(いしばね)町の文化住宅に住んでいた。

 激しい揺れの後、2階にいた健太さんと兄は救助されたが、1階にいた両親の姿がない。「パパー」「ママー」。がれきに向かって叫んでも返事はない。

 毛布をかけられた2人が、畳に乗せられ、運び出された。顔は隠れていたが、兄が母のパジャマだと気付く。近くにいた女性に「お父さんとお母さんよ」と言われ、めちゃくちゃ泣いた。

 ずっと見ていなかった母の顔を見たのは、火葬の直前だ。おでこが少しへこんでいた。父の顔は大人たちに「見なくていい」と言われた。ひつぎが入れられ、固い扉が閉じられる。もう会えなくなる。「バイバイ」と声を絞り出した。

 健太さんと兄、そして社会人の姉。残された3人の暮らしが仮設住宅で始まる。生活は一変し、一時期、不登校にもなった。

 「気持ちをぶつける場所がなかった。地震は恨めない。だから親を恨んだ。なんで、置いていったんやって」。悲しくて、寂しくて。「自分が死ねば会えると思った。どうすれば死ねるのかも分からないのに」。パパとママに会いたかった。

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 小学1年のときに発生した阪神・淡路大震災で両親を亡くし、社会人の姉、高校生の兄と、仮設住宅で暮らしていた前田健太さん。小4の秋、西宮市北部に引っ越すことになった。

 姉が結婚することになり、その夫の両親が一緒に暮らそうと言ってくれた。「おっちゃん」と「おばちゃん」。おっちゃんも子どもの頃に親を亡くし「健太の気持ちが分かるから」と。震災前と同じように、みんなで食卓を囲む生活が戻ってきた。

 当時の健太さんは寝入った後、急に泣き出すことがあった。そんな時、誰かがそばにいてくれた。市立山口小、山口中では野球に打ち込んだ。「寂しさがほぐれていった」という暮らしは5年半続いた。

 中学卒業後、徳島県で新しい生活が始まる。社会人になった兄が結婚し、妻の実家で義父母と同居することになった。「健太も」と声がかかった。

 新たなおっちゃんとおばちゃん、兄夫婦らとの生活。健太さんは野球の名門池田高で練習に励み、おばちゃんたちは泥まみれになったユニホームを洗濯し、弁当を作ってくれた。

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 神戸学院大への進学を機に、兵庫に戻ってきた。震災から10年ほどが過ぎていた。大学で、周囲に震災の話をすることはなかった。小学生のころからずっとそうだった。

 ふいに両親の笑った顔が頭に浮かぶときがある。夏は須磨の海に行き、宝塚のファミリーランドに出かけた。「楽しくて当たり前だったことが、一気になくなったのが震災だった」

 震災のことを話そうとすると、泣いてしまう。毎年、正月になると、心の中でカウントダウンが始まる。テレビの震災特集を目にすると、しんどかった。

 心境が変化するきっかけは、父の同僚の存在だった。大学生の頃、飲みに連れていってくれ、自分が知らない父母の姿を教えてくれた。両親の記憶に触れることが、「寂しい」から「もっと知りたい」に変わった。

 2017年、滋賀県の中等教育学校で学校職員として働き始め、その年に結婚した。翌年には娘が誕生する。日々の成長がうれしい。いとおしい。

 そして、同時に思った。

 「パパとママも、いとおしいと思ってくれてたんや。『なんで、置いていったんや』と恨んだりして申し訳なかった。7年間、いっぱい愛情をもらったんだ」

 2年前、勤務先で震災の経験を初めて語った。いざ話してみると、感謝の気持ちが湧いてきた。長年のつっかえが取れたように感じ、「震災のこと、伝えていかな」という思いが膨らんだ。

 能登半島地震があり、いつまた、どこで災害が起こるか分からない。自分と同じような悲しい経験をしてほしくない。だから「力になれるなら、どこへでも話しに行こう」と考える。

 震災から29年が巡る。まな娘は5歳になった。「自分は世界一、不幸だと思っていたけど、たくさんの人に支えられて幸せだと、今は思える」

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