母と、思い出が詰まった家を失った。阪神・淡路大震災で兵庫県淡路市志筑の実家が全壊し、母の井髙美栄子さん=当時(76)=を亡くした芦屋市若葉町の長男敏春さん(75)。つぶれた家を前に立ち尽くし、ただ必死に29年を生きた。もうすぐ母が亡くなった時と同じ年齢になる。「ここまでこられたのは母が見守ってくれたから」。あの日と向き合ってみよう。悲しみ、喪失感…。今だから話せる思いがある。(古田真央子)
弟、妹と4人きょうだいの敏春さん。中学卒業後、就職を機に島を出た。弟、妹も市外へ移り、父は47年前に他界。故郷の2階建ての長屋で美栄子さんが長く一人で暮らしていた。
1995年1月17日朝。今と同じ集合住宅9階の自宅で寝ていた敏春さんは、ドンと下から突き上げられた。激しい揺れが続いた。隣にいた妻の美知子さん(71)に覆いかぶさった。
小学6年の次男の上にたんすが倒れた。家具や電化製品は飛び、食器は全て割れた。それでも、中学2年の長男を含め家族4人は無事だった。
敏春さんと長男は片付けのため自宅に残り、美知子さんと次男は小学校へ。淡路島にいる美栄子さんの安否を確かめようと、美知子さんは電話の列に並んだが、つながらなかった。
「名前があった」。敏春さんの元に知人が来て、テレビで流れた死亡者名に美栄子さんがいたと告げた。
当時まだ橋はなかった。翌日昼、敏春さんは妹、家族と西宮から出ていた高速船の臨時便に飛び乗り、淡路島へ急いだ。
夕方、避難所になっていた会館で美栄子さんと対面した。額に青いあざがあった。「砂だらけの顔で。拭いたら体温が戻ったようで。私たちを待ってたんやね」。美知子さんは振り返った。
19日、葬儀を終え、敏春さんは妹と実家に駆け付けた。愛着のある家はぺしゃんこだった。
がれきの中に、炊飯器を見つけた。白飯が残っていた。「まだ温かくて。母がここにいたというぬくもりを感じた」。敏春さんは、少しの写真と手紙を持ち帰った。
実家のあった場所はその後、道路になった。敏春さん、美知子さんは毎年、墓参で淡路市を訪れてきたが、変わってしまった風景を見るのが嫌で、実家近辺は通らなかった。
「おしゃべり好きで、誰とでも仲良くなれた」「語尾に『よ』を付ける話し方が特徴やった」「煮付け、のり巻き。料理が上手で。おやつに作ってくれたふかし芋は今も好きやなあ」
思い出は尽きない。
東日本、熊本、能登半島…。大地震が続く。「絶対大丈夫なんて所はない」。敏春さん、美知子さんは、大切な人を亡くした被災者を思い、胸が痛む。
3月、敏春さんは誕生日を迎え、美栄子さんと同じ年月の人生を刻む。
「生んでくれて、育ててくれてありがとう。会いたいな。いつまでたっても母親だから」
17日朝、敏春さんは感謝を胸にいつものように勤め先に向かう。