生き埋め11時間、見つけたのはなじみの店のママだった 芦屋で1人暮らしの自宅全壊 つながりに感謝

阪神・淡路大震災で倒壊した自宅の下敷きになり、11時間後に救出された小田原達彦さん。左腕に痕が残る=芦屋市内

 29年前の阪神・淡路大震災では、阪神間6市1町で1761人が犠牲となり、2万2千人以上が負傷した。「紙一重やった」。兵庫県芦屋市宮川町の自宅が全壊して生き埋めになった小田原達彦さん(83)が振り返る。救出されたのは発生から11時間後。1人暮らしだった小田原さんを見つけてくれたのは、行きつけの居酒屋のママだった。(広畑千春)

 1995年1月17日の朝、「ドーン」と衝撃があり、ベッドの下に潜り込もうとした瞬間、天井が落ちてきた。気付くと左腕が挟まれ動けない。少したった後、自分の名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。常連客として10年以上通う居酒屋を営む中路小夜子さん(76)だった。夫の昌義さん(82)も含め、一緒に旅行に行く間柄。小夜子さんも自宅兼店舗が全壊したが、家族の心配を押して救出を見守った。夕方近くに助け出された小田原さんは「寒いとかはなかった。ママが気付いてくれたから。いつか助けが来ると思っていた」と話す。

 近くの病院に行ったが、挟まれていた左腕に水ぶくれが生じ始め、急きょ大阪の病院へ。筋肉の一部は壊死(えし)し、太ももの内側など皮膚の移植手術を繰り返した。退院できたのは6月。姉の家に身を寄せたが、クラッシュ症候群の影響で左腕にまひが残った。家も仕事も失い途方に暮れていた時、住み込みで働ける独身寮の管理人の求人を見つけ、定年まで勤めた。その後はアルバイトで74歳まで働いた。職場の仲間に誘われ山歩きという趣味もできた。

 中路さんの店には、震災後も通い続ける。店で出会った一回り、二回り下の客から誘いの電話が入る。あえて震災の話はしないが、忘れることはない。「ママが見に来てくれたから命がある。これまでも、こうしてみんなで飲めてることも。ありがたいね」

### ■「近所付き合い」進む希薄化、担い手づくり行政模索

 少子高齢化や情報技術の発達などに伴い「近所付き合い」が希薄になっている。内閣府の2002年度の調査では、「ある程度」を含め「地域の人と付き合っている」と答えた人が69.4%だったが、20年後の22年度には55.1%に減少。特に70歳以上は顕著だった。地域のつながりが減ることで困難を抱えた住民の孤立化が進み、災害時の見守りが難しくなっている。

 尼崎市が21年1月に実施した市民アンケートでは、1人暮らし世帯の2割近くが「隣近所の顔も知らない」と回答。全体の3割が「コロナ禍で交流が減少した」としていた。

 同市は22年度の組織改編で「重層的支援推進担当課」を新設。部署ごとにバラバラだった支援対象者の情報を「うけとめ・つなげるシート」に統一し、庁内と、民生・児童委員や町会(自治会)を取りまとめる社会福祉協議会とで共有した。

 さらに、尼崎小田高生や関西国際大生が「見守り・ささえあい協力員」として、民生委員や自治会の高齢者の見守り訪問・サロンに加わるなど、高校・大学との連携も進める。

 地域の高齢者が見えにくくなっている一方で、「地域に関わりたい、と考える若い人の割合は意外に高い」と市の担当者。どこに誰が住んでいて、どんな困難を抱えているか。「若い世代が地域に参加するきっかけをつくり、一緒に課題を解決することで、将来、地域の担い手として活動しようという意識につながれば」と話している。(広畑千春)

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