「息子を救いたかった」生きる意味を見失った母親 息子からの“決意と感謝”の手紙に支えられ…生きた証と命の大切さを訴え続け

能登半島地震による影響が続くなか、6400人あまりが犠牲になった阪神・淡路大震災から17日で29年となりました。地震で、大学生だった息子を亡くした母親を支えたのは、親元を離れる日に手渡された手紙でした。

「凝縮された29年があの子にもあったはずなのにって。もう一度29年前に戻ってあの子を救いたかったなって常に思いますね」。広島市に住む加藤りつこさん(75)です。阪神・淡路大震災で、息子・貴光さんを亡くしました。

加藤貴光さん。当時は神戸大学の2年生…。兵庫県西宮市の下宿先のマンションで亡くなりました。広島で暮らしていた母・りつこさんが事態の深刻さを知ったのは地震発生のおよそ1時間後でした。

りつこさん
「大変な被害が起こってる様子がテレビの映像で映し出されてびっくりして。
もうどうしていいのか分からない。そこからですね。もうしんどくなってきたのは。(息子のもとへ)行きたいのに行くこともできないそういうなかで部屋の中を右往左往してました」

電話もつながらない…。どうすることもできず、時間だけが過ぎていきました。
貴光さんの安否がわからいまま、翌日、やっとの思いで手に入れた飛行機のチケットで大阪に向かいました。

りつこさん
「電車がずりおちてました。伊丹市の方までこんな状態だったら(息子のいる)西宮市はもっとひどいかもしれないと不安がよぎったのを記憶していますけど」

それでもあの子はきっと大丈夫…。
そう自分に言い聞かせながら電車を乗り継いで、ひたすら歩き続けました。

りつこさん
「自分の気持ちの中でここでダメだと思ったら、あの子は本当に亡くなってしまうという気持ちで『大丈夫だ。大丈夫だ』と思っていたからまだ歩けたのだと思う」

およそ4時間後、貴光さんの住むマンションにたどり着きました。しかし、それは想像できないほどに変わり果てた姿でした。

貴光さんが暮らしていた5階建てのマンションは、根元から崩れていました。

りつこさん
「あの大きな鉄筋コンクリート5階建てのマンションが倒れているわけですからそれはもう本当に地獄でした。えっ…と思って。それでもまだ私は大丈夫だと思って地上を歩きました。そうやって進むうちにコンクリート片が山のようになっていて瓦礫の上を歩かなければならず、どこをどういう風に歩いたかはもう覚えていません」

すると、2人の男性が近づいてきて「加藤さんですか?」と声をかけてきたといいます。「はい」と答えると「奥さん、お気を確かに」と両端に来て両腕を取ってくれました。

りつこさん
「私はその時『気を確かにってどういうこと?』と思ったのですが、そこでに初めて、ダメだったのか…というのが分かりました」

その瞬間、両足から崩れ落ち、両腕を取ってくれた2人に抱きかかえられるようにしてその場を後にしたといいます。

貴光さんが暮らしていたマンションは地震で倒壊…。2階にいた貴光さんは建物の下敷きになり帰らぬ人となりました。帰省していた貴光さんから将来の夢の話を聞いたり一緒に初詣に行ったりと、楽しく過ごした正月のわずか2週間後のことでした。りつこさんは、この日から29年間ずっと、初詣に行くことができません。

りつこさん
「『お母さんも体に気を付けてね』と言って歩いてコンコースに消えていったあの後ろ姿が最後でした。手を触ったらのけぞるように冷たかった。あの子の手はこんな冷たい手じゃなかった、私たちはいつも別れるときに握手をするんです。別れ際に握手した手の温もりが全然消えなかったもんだから、この手の冷たさはこの子のもんじゃないって」

さらに震災から28年後、りつこさんは貴光さんが倒壊したマンションのがれきの下で、最後まで助けを求めていたことを知ったといいます。貴光さんの上の階に住む住人が、震災当日の午前9時過ぎまで下の方からドンドンとがれきを叩く音を聞いていました。

りつこさん
「上の階の住人もそれに答えるように『助けに行くから』『救助がくるからもう少し頑張れ』と声をかけたそうです。あの子が、あんなに長くしんどい思いをしていたんだなと思うと、やりきれなくてしんどかったです。本当に頑張ったんだな、最後まで生きようとしてたんだなと」

地震のせいで、心も何もかも壊れてしまったー。
貴光さんを失って、りつこさんはもう生きる意味がないと感じていまいした。

りつこさん
「悲しかったですね…。想像もしてなかったですから。まだまだあの子はこれから夢を追って生きていくという私は後ろから見守って」

震災から29年になろうとしていた1月、りつこさんは貴光さんが通った広島市安佐南区の安古市高校にやってきました。

りつこさん
「体育館ですよね。向こうに剣道部の道場があったんかな」

高い目標を立てて、それを実現するために何をすべきか考える子だったという貴光さん。世界情勢に興味を持ち将来必ず留学したいと語っていました。そのために、まず日本文化を学ぼうと剣道にも励みました。

りつこさん
「あまりにも思い出が多すぎて、来ると涙が出てしまうのであまり来なかったのですが、安古市高校で彼の青春が始まったというか熱い思いがたぎったのだと」

大学進学後も将来は国際平和に関する仕事がしたいと勉強熱心で、国際交流サークルの仲間たちにも慕われていたといいます。大学2年生のときには、国際交流サークルの活動で韓国に渡り現地の学生と交流しました。

“交流先の国で親友をつくること”それは、貴光さんの夢であり目標でした。「親友を作れば彼らが社会に出て国を担うころになったときに親友のいる国を悪く言わないだろう」。りつこさんの前で、そう語っていました。

りつこさん
「『将来政治的にうまくいかないことがあったとして、解決の糸口はそこに親友がいることだ。できる限り各国の学生と出会って信頼関係を結びたい』って。それが貴光の夢だったんですね。その1歩が韓国だった。だけど韓国だけで終わってしまいました」

りつこさんは、韓国から帰国してすぐに貴光さんが話してくれたことを、今でも忘れられません。

りつこさん
「貴光を広島駅に迎えに行くと『会話するって大事だよね。分かり合える、絶対分かり合える』。そう言って涙をボロボロ流したんですよ。そして日本に帰国するときにみんなが寂しがってくれたって。韓国でできた友達が『タカ(貴光)のいる日本だから、もっと僕たちも日本のことを勉強するよ』と言ってくれたそう。それがすごく嬉しかったみたいで」

りつこさんには、貴光さんからもらった大切なものがあります。大学入学を前に、家を出て離れて暮らすときにもらった一通の手紙です。

一緒に西宮市の下宿先を確認したあと、広島に帰るりつこさんを見送るため、貴光さんが、新大阪駅まで付き添ってくれたときでした。

りつこさん
「私はこのときある決意をしました。子離れしなければいけないと。1人の大学生、社会人として息子がこれからどんなことをするのか、後ろから応援しようと。決意したと途端に涙が溢れてしまってね。泣いてしまったんですよ」

涙が溢れたと同時に、新幹線のドアが閉まりました。すると、貴光さんが自分の上着ポケットを指差しました。「なんだろう」と思い、自分のコートのポケットを確認すると、そこには手紙がきれいに折りたたんで入れてありました。

りつこさん
「新大阪駅から広島駅まで何度も読み返して、号泣しながら帰りました。こういう風に育ってくれてよかった。もうこれからは息子ではなく、1人の学生、そして社会人として後ろから応援しようという気持ちを、改めて強められた手紙なんですけどね。でもこれはもう遺書みたいになってしまった」

手紙につづられていたのは、りつこさんに対するこれまでの感謝の気持ちと1人で立派に生きていくという決意でした。

息子・貴光さんからの手紙(全文)
親愛なる母上様
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく、温かく大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。
私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・。この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私はこの翼で大空へ飛び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。
これからの私は、行き先も明確でなく、とても苦しい“旅”をすることになるでしょう。疲れて休むこともあり、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。しかし、私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。
こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。住むところは、遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。決してあなたはひとりではないのですから・・・。
それでは、くれぐれもからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。最後にあなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。
翼のはえた“うし”より

手紙の最後に記された「翼のはえた“うし”」はもちろん貴光さんのこと。”うし”というのは、母と息子の間でのみ使われていた貴光さんの愛称でした。

「こう思い込んだら突っ走る。もう絶対曲げないのだからやっぱりタカ(貴光さん)は丑年生まれだね」
”ウシ”は、こんな親子の何気ない会話から生まれたものでした。

りつこさん
「最後に『あなたを母にしてくれた神様に感謝の意をこめて』と結んでありますが、ここまで言ってもらったら母親として凛と生きていかなければと思わせてくれる」

現在、りつこさんは懸命に生きた息子の姿や生きることの大切さについて、小学校や中学校などで語り続けています。

りつこさん
「みんな命をそれぞれ授かったわけだからその命を目一杯使ってほしいという気持ちがある」

貴光の懸命に生きた姿を通して命の尊さを伝えることは、りつこさんの生き甲斐にもなっています。
一寸先には何が起こるかわからないー。
それを時々思い出して今を大切に生きてほしいと話します。

りつこさん
「これから先は1日1日をしっかり楽しみながら悔いのないように生きないといけないと感じている」

今、息子はどんなふうに生きていただろうかー。考えない日はありません。

りつこさん
「2週間後に亡くなると分かっていたら、正月の日、兵庫県に帰すんじゃなかったと。もう一度親子の縁をいただけるのならば、また貴光と親子になりたいなって。もう一度子育てのところからやり直したい…そんな思いです」

今でも覚えています。買い物に出かけて、一緒に肩を並べて歩いていた日のこと。
「1人息子だしお母さんと一緒に買い物していたら、親離れできていないと笑われのではないの?」
ー『なんで?僕はもちろんお母さんをお母さんと思っているけれど、”人生の1人の先輩”と思っているから恥ずかしいことは何もないよ。言わせたい者には言わせてけばいい』
「ああ、タカ(貴光は)親を超えたね」
ー『お母さん、親を超えることなんてできないよ』
「どうして?」
ー『だって、お母さんと僕は20年以上も年の差があるんだよ。人間は、1年でものすごくいろんなことを学んで成長するんだよ。だから20年以上の差は超えられないよ』

そう笑って話したという貴光さん。
少し恥ずかしいと感じながらも、りつこさんは息子の成長がとても嬉しかったこと、貴光さんとの何気ない会話のすべてが、大切な時間でした。

貴光さんに思いをはせながら、りつこさんは震災から29年を迎えます。

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