止まった家族の時間がやっと動き始める 「1.17のつどい」遺族代表、鈴木佑一さん

阪神・淡路大震災1.17のつどいで、遺族代表として追悼のことばを述べた鈴木佑一さん=17日午前5時51分、神戸市中央区加納町6、東遊園地(撮影・長嶺麻子)

 神戸・三宮の東遊園地では、神戸市などによる追悼行事「1.17のつどい」が開かれた。灯籠を並べて能登半島地震の被災者に寄り添う「1995 ともに 1.17」の文字をかたどり、光を囲む人垣ができた。

 阪神・淡路大震災が起きた午前5時46分に合わせて参列者は黙とうした。

 同市兵庫区で母富代さん=当時(44)=を亡くした同市須磨区の鈴木佑一さん(34)が、遺族を代表して思いを語った。久元喜造市長と坊恭寿・市会議長が追悼のことばを述べた後、ガス灯「1.17希望の灯り」前で献花した。(金 旻革、井沢泰斗)

 

■遺族代表のことば(要旨)

 震災の日、5歳の私と母、兄の3人は神戸母子寮で生活していました。建物が倒壊して生き埋めになり、私は助け出されましたが、母は亡くなりました。無事だった兄は父親に引き取られ、私だけが児童養護施設に預けられました。その日から、私と家族との時計の針は止まりました。

 ほとんど会話しなかった父は、私が18歳の頃に孤独死しました。私は大学に進学。家族とのつながりを切り、人生を自分一人の力で生きると決めました。

 そんな中、母子寮の職員だった方から母の形見と手紙を受け取りました。手紙には母がよく私を膝の上に抱っこして「私はこの子がいるから大丈夫」と言っていたと書かれていました。初めて母に愛されていたと実感できました。

 大学で恩師と出会い、社会に出て相談できる人たちも増えました。素直に人に頼る。感謝をする。そうした人間関係が大切だと思い始めました。

 私は家族のルーツを探すようになりました。初めて親戚に出会い、異父の兄がいると知りました。その兄に連れられ、母の墓に行くことができました。

 母子寮の職員だった方は、実の兄の話もしてくれました。私に「何もしてあげられなかった。兄として会う資格がない」と泣きながら電話で話したそうです。兄も実の母を亡くし、苦労する中で私に責任を感じてきたのだと思いました。

 「幸せで生きて」と伝えたい。情報提供で居場所が分かり、再会できました。兄は「会いに来てくれてありがとう」。優しく、責任感の強い方でした。

 きょう初めて、2人で母の墓参りに行きます。29年前に止まった家族の時間が、やっと動き始めます。私が生きてこられたのは、多くの方に支えられたから。自分が経験した震災のことを伝え、1人でも誰かの役に立てたらと、きょうこの場所に立たせていただきました。

 

■追悼のことば 久元喜造・神戸市長(要旨)

 元日、石川県能登半島で最大震度7の大地震が発生しました。地震により亡くなられた方々に、心より哀悼の意を表すとともに、被災された方々にお見舞いを申し上げます。神戸市として阪神・淡路大震災の経験やノウハウを生かし、全力で支援活動を展開します。

 震災から29年がたちました。震災の経験や教訓を風化させず、次の世代に継承することが求められています。神戸市は、被災地を支援しながら震災の記憶を伝えていきます。

 震災の時、私たちは国内外から多くの支援をいただき、復興を果たしました。感謝の気持ちを忘れず、防災・減災、健康・安全の分野で貢献する都市であり続けます。そして、災害に強い都市づくりを進めます。

© 株式会社神戸新聞社