「私、お母さんのように看護師を続けているよ。見てくれていますか」。神戸市中央区の東遊園地で、小谷靖子さん(53)=神戸市東灘区=は母・斉部ヒロ子さん=当時(51)=に呼びかけた。目を閉じて思い出すのは、震災前日、笑顔で励ましてくれた母の姿だった。
あの日、ヒロ子さんが住んでいた神戸市東灘区の2階建て文化住宅は全壊。1階にいたヒロ子さんは、落ちてきた2階の下敷きになり亡くなった。
最後の会話は、震災前日だった。結婚を控えていて、その日は両家の顔合わせだった。「つらいことがあってもきっと乗り越えられる。結婚はそういうものだからね」。ヒロ子さんは手を振りながら、駅で見送ってくれた。その声と笑顔を今も鮮明に覚えている。
当時、小谷さんは、尼崎市内の病院で看護師として働いていた。神戸の激震はテレビの映像で知った。本当は一刻も早く母のもとに駆けつけたかったが、病院には自分を待つ患者がいる。はやる気持ちと同時に、どんなときでも患者を思う母のことが思い浮かんだ。
看護師だったヒロ子さんは、どんなにしんどいことがあってもしゃんと背筋を伸ばして病院に向かい、消毒液のにおいをまとって家に帰ってきた。そんな母の背中を追いかけ、自身も看護師を目指した。
その日の勤務を終えるとバイクに飛び乗り、西へ向かった。国道2号がでこぼこにゆがみ、阪神高速が横倒しになる様子が目に飛び込んできた。「もうだめだ」と悟った。それでも「もしかしたら、逃げてくれているかも」。祈りながら近くの避難所を回ったが、見つからなかった。
ヒロ子さんの自宅についたのは午後8時ごろだった。それでも母は、その選択をきっとほめてくれる気がする。
「将来は一緒に働こうね」と交わした約束はかなわなかったけれど、今わが子が看護師を目指し勉強に励んでいる。「お母さんの思い、孫にまで受け継がれているよ」。銘板に刻まれた亡き母の名をなぞり、優しく語りかけた。(橘高 声) 【特集】阪神・淡路大震災