震災で両親を失った神戸市西区の辻原弘さん(65)は「慰霊と復興のモニュメント」地下にある「瞑想空間」で、両親の銘板を指でなぞった。唯一の遺品となった調理用の鉄板は、今も家族の結びつきを強めている。静かに手を合わせ、感謝を伝えた。
鉄工所で旋盤工をしていた父光夫さん=当時(65)=と、母恵子さん=当時(63)。恵子さんが作る八宝菜も好きだったが、「わが家の風景」は、食卓の真ん中に置かれた光夫さん手製の鉄板だった。
「お客さんがあれば父の出番。会社の同僚に肉や魚の鉄板焼きを振る舞うのが大好きでした」。週1回は幼かった長女を見せに帰ると、うれしそうに自転車で連れ回してくれた。
そんな温かい空間は一瞬で奪われた。震災時の火災で、実家のあった同市長田区水笠通は一帯が焼け野原に。両親が暮らす2階建ての長屋も全焼し、辻原さんは翌日、何とか前までたどり着いたが、熱さで近づけなかった。
後日、自衛隊員がわずかな遺骨を掘り起こしてくれた。「一人っ子やから、いつか両親を呼び寄せて一緒に暮らそうと…。もっと恩返ししてあげたかったね」
写真や衣服は跡形もなかったが、焼け跡からあの鉄板を見つけた。
あれから29年。長女と次女はそれぞれ2人の子を授かり、頻繁に顔を見せてくれる。にぎやかな家族の集まり。あの鉄板で皆に料理を振る舞うのは、辻原さんの役目になった。(井沢泰斗)