武並駅から恵那駅まで~中山道踏破コースのご紹介~前編

JR中央線武並駅から深萱立場へと向かう

中山道は江戸時代に整備された五街道の一つ。そのうち恵那市を通る約10キロは、今も昔のままのたたずまいが見られる箇所が多く、様々な石造物や建造物が残っています。

今回はJR武並駅から1.9キロ地点、国道19号線を西に進み、竹折交差点を右折した先にある「深萱立場」から恵那駅までのルート7キロあまりをご案内いたします。

深萱立場と高札場

深萱の立場本陣は中山道通行者の中でも身分の高い人が使う休憩所でした。立場本陣をになっていた加納家で所蔵している「御大名様御小休覚帳」の弘化元(1844)年を見ると、毎月平均して5回ほど、多い月は13回ほど御小休を受け入れていたことが分かります。来られたのは藩主や江戸役人などでした。

立場本陣から少し進むと高札場があります。高札場とは、江戸幕府からの命令を庶民まで知らせるための掲示板です。ここ藤村の高札場にはキリスト教を信仰することと放火をすることの禁止札が掲げられていました。

高札場を過ぎて右手に見えてくる小さな橋を渡り、左側の細い道(旧中山道)を進みます。

三社灯籠と佐倉宗五郎大明神

細い道を進んだ先、左手に見えてくるのが三社灯籠です。加納文左衛門という造り酒屋の主人が、嘉永7(1854)年に建てたものです。三社とは伊勢神宮・秋葉神社・金刀比羅宮を指し、村中安全、五穀豊穣、火の用心を祈願しています。

三社灯籠の左奥に進むと神明神社があります。そこには日本の有名な俳人・松尾芭蕉の句碑があります。他にも10余りの句碑が並びますが、これは深萱の高札場付近から移転したものです。

三社灯籠の反対側、中山道を挟んで右手側の木立の中には、二十二夜さま、稲荷社、佐倉宗五郎大明神が祀られています。
昔この辺りで、人々が生活の苦しさゆえに藩主に対して武力行使を目論んだ時、庄屋の田中与一が単身江戸に上がって将軍に直訴し、自身は斬首の刑に服しながらも村人を守ったというお話が残されていますが、その田中与一の行動を佐倉宗五郎大明神に重ねて祀っているという説があります。

紅坂ぼたん岩と一里塚

三社灯籠からしばらく、木々の間を抜ける道を歩きます。途中数軒の集落や「黒すくも坂」という坂を通り過ぎます。400メートルほど進んだところで足元に大きな岩が目につきはじめます。

紅坂と呼ばれる坂の途中の路面に、岩石が露出しているところがあります。岩の表面が薄く層になって幾重にも重なっており、牡丹の花のように見えるため「ぼたん岩」と呼ばれています。実際は花崗岩の「玉ねぎ剥離」の標本として貴重な岩となっています。

一里塚とは、街道の一里(約4キロ)ごとに築かれた距離の目印となるもので、5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約1.7メートル)に土を盛り上げてつくられ、上には榎や松などの木が植えられていました。
紅坂の一里塚は江戸から89里、京まで45里の位置にあり、街道の両脇のものが残っています。

乱れ坂と乱れ川

一里塚から1キロほどの間には、茶屋の跡や高札場の跡、殿様街道と呼ばれた岩村城下町に続く道との交差点など、いくつかの見どころが続きます。

さらに大井宿側に進んで小さな川を渡るところで、乱れ坂という場所が現れます。

乱れ坂と乱れ橋は、大井宿と大湫宿の間にある難所のひとつ。坂が急なため大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女性の着物の裾が乱れるほどであったためその名がつきました。
坂のふもとの川は「乱れ川」と呼ばれていて、石も乱れるほどの急流であったそうです。

続き「武並駅から恵那駅まで~中山道踏破コースのご紹介~後編」は後日公開します!

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