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「既存産業が高度化し、次世代産業もたくましく活動する社会づくり」
阪神・淡路大震災から半年が経過した1995年7月、兵庫県の震災復興計画に、産業復興の基本目標が掲げられた。21世紀を見据えて既存産業の成長とともに、新産業創造システムなどの形成を本格復興の重要課題と位置づけた。
がれきの中から再起を誓った被災地の経済は、バブル崩壊後、急速なグローバル化の荒波にのまれていった。「90年代は、いろんな意味で転換点だった」と、被災地の経済政策に携わった兵庫県立大の加藤恵正名誉教授(71)は語る。新興国の台頭で日本経済が構造転換を迫られる中、さらに災禍も背負った被災地は停滞を余儀なくされた。
県と被災12市の実質域内総生産(GDP)は、震災直後に復興需要で急拡大したが、2000年代前半から伸び悩む。いざなみ景気(02~08年)で緩やかな経済成長が続いた全国に対し、兵庫・被災地は震災前と同等か、それ以下の水準が続き、格差が広がった。
震災前、世界6位のコンテナ取扱量を誇った神戸港は拠点機能を韓国・釜山港などに奪われる。神戸と国内外を結ぶ物流の大動脈が細る中、山一証券や日本長期信用銀行など金融機関の破綻も相次いだ。銀行の再編が矢継ぎ早に進む中、金融機関がリスク回避の動きを強め、被災中小企業への融資が滞った。
災害経済が専門の関西大、地主敏樹教授(64)は「復興需要を生んだ急ピッチの建設ラッシュは、結果的にその後の成長の『先食い』になった。自力再建がメインだった時代、被災した中小零細企業は金融支援も十分に受けられず、本来回すべきところにお金が回らなかった」と指摘する。
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この30年間で、兵庫経済を支えてきた重厚長大を中心とする製造業が変容した。21年の被災12市の製造品出荷額は、なお94年の水準を下回ったままだ。
神戸の地場産業であるケミカルシューズや酒造業が痛手を負い、被災した大手や中小企業の拠点が県外や被災地外に移った。県内の製造品出荷額に占める被災12市の割合は、この30年間で56.2%から47%へ9.2ポイント低下した。
産業構造も変わった。県内の第2次産業と第3次産業の生産額は、震災を機に逆転。業種別の生産額も、この30年間で製造業は18産業のうち10が縮小、一方で非製造業は17産業のうち12が拡大した。
直近10年間は、アベノミクス以後の緩やかな景気拡大の波を受け、被災地でも経済の回復基調が続くが、成長曲線は全国に後れを取る。
「被災を経て『元に戻さなければならない』との意識が働き、重厚長大に依拠した構造から次にステップする力が弱かった。転換が難しかったのは事実だが、変わらないといけなかった」と加藤名誉教授。一方で「重厚長大は貴重な資源。どう進化させていけるかが今後を左右する」と説く。
復興計画で掲げた質実剛健な兵庫経済の姿。その実現は、いまだ途上にある。
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「創造的復興」を掲げた阪神・淡路後の被災地と兵庫県の経済。その実相を、まずはデータから読み解く。(横田良平)