1人暮らしの兄、昼に戻ると思っていた…阪神・淡路大震災から29年、「私もしっかり生きないと」西宮の女性、銘版に誓う

亡くなった荒田龍哉さんとの思い出を語る妹のちささん=17日午後、西宮市能登町(撮影・吉田敦史)

 石碑に刻まれた名を見つめ、静かに手を合わせる人がいた。被災者を励ましたドラム缶の鐘は、最後の音を響かせた。「毎日を大切に、精いっぱい生きよう」と記憶をつなぐ場もあった。阪神・淡路大震災から29年。多くの命が奪われた阪神間は17日、深い祈りに包まれた。

 「お兄ちゃん、来たよ」。

 銘板に名前を見つけ、荒田ちささん(57)=兵庫県西宮市=はそっと声をかけた。17日早朝の西宮震災記念碑公園。29年前、兄龍哉(たつや)さん=当時(31)=を亡くした。優しくて、大好きだった。いつも頼りにしていた。寂しさは消えないけれどここに来るたび思い出す。「あぁ、お兄ちゃんは生きていたんだな」。そして気持ちを引き締める。「私もしっかり生きないと」

 荒田さんは当時、同市内の自宅で両親と暮らしていた。あの朝、激しい揺れに襲われたが、建物は無事だった。龍哉さんは徒歩15分ほどのアパートで1人暮らしをしていた。戻ってくるだろうと思っていたのに、昼になっても帰ってこない。自転車で向かうと、木造2階建ての1階部分が押しつぶされていた。兄が住んでいた場所だった。周辺も被災して救助が進まず、運び出されたのは2日後だった。

 龍哉さんの遺体は近くの公民館に搬送された。顔はきれいだが、全身に青あざがあった。犠牲者が多く、火葬は10日ほど待つことになった。「痛かったねえ」。毎日、ひつぎで眠る兄に声をかけた。

 誕生日にはネックレスやブレスレットを買ってくれた。動物が好きで、野良猫を拾ってきたこともあった。荒田さんは1人暮らしの部屋にもよく遊びに行った。17日の数日前にも家で作ったたこ焼きを届け、たわいもない話をした。内容は覚えていない。「それが最後になるなんて思いもしなかったから」

 直後は実感が湧かなかったが、年を重ねるごとに寂しさが募った。震災から10年後に母が、その5年後には父が病死。一人になった。「あの地震さえなければ」「もし兄が生きていたら」。そんな思いが今もふと頭をよぎる。

 あれから29年。兄と一緒に過ごした時間よりも長くなった。当時の記憶は薄れつつある。でも碑の前に立てば実感する。「いま私が生きていることはすごいことなんだ」

 龍哉さんはあの1週間後、オーストラリアを旅しているはずだった。「いつか兄の代わりに行ってあげたい」と思っていたが、この日、「元気なうちに行かなくちゃ」と決心した。「やりたいことを後回しにせず、楽しみながら人生を全うしたい」。そうほほ笑んだ。(地道優樹)

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