誰もアフガンのことを考えず、アメリカ製の民主主義を押しつけた 民主化が失敗した理由は何か。これからどうなるのか【アフガン報告】6回続きの(1)

市民に迎えられアフガニスタンの首都カブールの中心街に入った北部同盟の戦車=2001年11月13日午後1時(共同)

 アフガニスタンは平和で繁栄した民主主義国家になるはずだった。少なくともアフガン人の多くはそう信じた。アメリカとヨーロッパ、日本など国際社会が何十兆円もの資金をつぎ込み、膨大な労力と20年の歳月を費やしたアフガン民主化が失敗に終わり、イスラム主義組織タリバンが政権を奪い返したのは2021年8月。アフガンは再び、女性や少数民族の権利が著しく制限され、自由に物を言えない国に戻ってしまった。壮大な実験はなぜ失敗したのか。この国はこれからどうなるのか。アフガン人に聞いた。(敬称略、共同通信=新里環、木村一浩)

 ▽「戦争が終わり世界中が支援している。失敗するはずがない」

 2001年11月13日、午後1時。砲身に花輪を飾った戦車が次々に首都カブール中心部を進んだ。タリバンを追放した「北部同盟」の首都入城だ。沿道の市民は兵士に手を振り歓声を上げた。勝利を祝福する紙幣が舞い、笑顔があふれた。
 米軍はその前月、アフガニスタンに侵攻し、タジク人を中心に少数派のハザラ人、ウズベク人などで構成する北部同盟と共闘。多数派民族パシュトゥン人を中心とするタリバンを追放した。イスラム教の極端な解釈に基づいた私生活への干渉―女性は全身を覆う服装を強いられ、男性は長いあごひげを生やすよう強制され、テレビや音楽、たこ揚げまで禁じられた―が消え、自由が戻った。
 「この大通りには高層ビルが立ち並び、素晴らしい街になるはずです」

 1年半後の2003年春。28歳のハシム(仮名)は廃虚が連なるカブールでそう言った。未来への希望が体内に満ち満ちていた。この後ハシムは15年以上、日本の支援機関で民主化と復興支援に携わった。
 北部同盟の兵士から民主政府の国防省職員に転じたシャヒド(仮名)も2003年、成功を確信していた。「戦争が終わり世界中がアフガンを支援している。失敗するはずがない」。当時33歳。未来は明るかった。

 ▽貧困は消えず、タリバンが戻ってきた

 20年以上が経過した現在。カブール西郊の避難民キャンプには当時と同じ光景が広がっている。泥の地面を子どもたちが素足で走り回る。7千人が暮らすキャンプには井戸が三つしかない。集めたごみを燃やして煮炊きする。異臭が漂う。弟を抱いた少女ナズダナ(8)に願い事を聞くと「おなかいっぱい食べたい」と言った。長老役ヤフタリ(43)は「冬には老人と子どもが何十人も死ぬ。支援はない」と訴えた。

アフガニスタンの首都カブールにある避難民キャンプに暮らす子ども=2023年11月17日(共同)

 民主化と復興支援にはアメリカだけで1450億ドル(約21兆円)、日本も69億ドル(約1兆円)をつぎ込んだ。主要都市を結ぶ道路網が整備され教育と医療も向上した。廃虚はほぼ姿を消し、首都には高級レストランやカフェが並んだ。都市の知識層を中心に民主主義への理解が広まり、女性の社会進出も進んだ。だが「民主政府」は安定せず、貧困は残り、タリバンが復権した。
 なぜこうなったのか。
 「支援国が自分たちの利益のために行動したからだ。アフガン人のことを考えた国はなかった」。人権活動家マフブバ・セラジ(75)は米欧日の支援が「あまりに表層的で誤っていた」と憤る。

アフガニスタンの首都カブールの自宅で取材に応じるマフブバ・セラジ=2023年11月15日(共同)

 ▽「アメリカの安全」が最優先された

 アフガンの近代史は混乱と紛争の連続だ。1979年の旧ソ連軍侵攻後、アフガンではソ連軍追放を目指す「イスラム戦士(ムジャヒディン)」が蜂起し、世界各地から志願兵が集まった。東西冷戦下でソ連の影響力拡大を食い止めたかったアメリカは、中央情報局(CIA)を通じてムジャヒディンに金と兵器を提供した。
 1989年にソ連軍が撤退を終えると、アフガンは軍閥間の泥沼の内戦に転落する。アメリカはアフガンへの関与を停止した。混乱の中で台頭したタリバンが1996年にカブールを制圧し政権発足を宣言。1998年にはアフガンほぼ全土を支配下に置いた。

 流れが一変したのは2001年9月11日。アメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルや首都ワシントン近郊の国防総省に旅客機が突っ込み、日本人24人を含む約3千人の命を奪った中枢同時テロだ。米軍は国際テロ組織アルカイダと、それを保護するタリバンを壊滅するためアフガンに侵攻した。
 タリバンの支配下でアフガンに成立した「テロの聖域」をつぶし、アメリカへの脅威を取り除くこと。それがアメリカにとって唯一最大の目的だった。米軍の戦費には民主化と復興予算の6倍近い8370億ドル(約120兆円)が投じられた。民主化と復興支援も「アメリカの安全」を守ることが目的で、日本とヨーロッパはそれに歩調を合わせた。セラジはそう主張する。

2003年6月、カブールの難民キャンプで暮らすアジズさん(左)と息子のグルアガ君(共同)

 ▽民主化プロセスは大急ぎで進んだ

 米欧日は目に見える成果を急いだ。2002年6月、移行政権発足。2004年1月、新憲法制定、同年10月、大統領選挙。「アメリカ製の民主主義が降ってきた。アフガン人は何も理解していなかった」。セラジは「国が良くなる」と希望を抱きつつ不安だった。タリバンの母体民族パシュトゥン人が国造りから排除され、欧米的価値観の押しつけも目立ったからだ。

アフガニスタンの首都カブール西郊の避難民キャンプに暮らす弟を抱いたナズダナ=2023年11月17日(共同)

 26歳の女性が内務省高官に登用されたこともある。治安の要職に若い女性。欧米の強い意向に沿う「見栄えの良い人事」だった。同様の例は無数にある。セラジは「アフガンの文化や慣習を無視している。間違いだ。いつか痛い目に遭う」と感じた。予感は的中した。

アフガニスタンの首都カブール西郊の避難民キャンプで水くみする人たち=2023年11月17日(共同)

 民主化プロセスが始まった後も、アフガンでは有力軍閥が各民族を仕切り、独自の徴税や麻薬取引などを通じて強力な私兵を維持していた。国家意思の決定には長い時間をかけた対話が不可欠だったが、「アメリカ製の民主主義」ではスピードが最優先された。トップダウンで政治を進めるため、新憲法は国民が直接選出する大統領に強い権限を与えるアメリカ型の大統領制を採用した。

アフガニスタンの首都カブールにある避難民キャンプで暮らす子どもたち=2023年11月17日撮影(共同)

 北部同盟を率いた司令官、故マスードの息子アフマド・マスードは、過度な権限集中の弊害を批判する。「勝者総取りのシステムが、大統領ポストを巡る熱狂的な競争を駆り立てた」。大統領選の度に不正疑惑が持ち上がり、各候補者の出身民族間で不信感が増殖した。マスードは、民族間での利益の奪い合いが「社会に大きな亀裂を生み出した」と指摘する。

アフガニスタンの首都カブール西郊の避難民キャンプで暮らす子どもたち=2023年11月17日(共同)

 ▽民主化はゼロに戻った

 2021年のタリバン復権後、中学1年以降の女子教育は禁じられ、女性は就労の自由を奪われた。女性教師のタマンナ・ムスタマンディ(33)は北部マザリシャリフで女性抑圧に抗議の声を上げた。今はタリバンに追われる身だ。

アフガニスタンの首都カブールにある避難民キャンプの子どもたち=2023年11月17日(共同)

 知識層が自由や男女平等という価値観を受け入れ、保守的なアフガン社会は変わりつつあったが「ゼロに戻った」という。 「教育を受けた人たちは次々に外国に逃げている。私もインドに逃げる。4歳の娘を育てるにはそれしかない」(続く)

アフガニスタンの首都カブールで取材に応じるタマンナ・ムスタマンディ=2023年11月16日(共同)

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(筆者略歴)

新里環
2010年共同通信社入社。広島や千葉支局を経て、2021年からイスラマバード兼カブール支局長。核や人権問題を取材してきた。

木村一浩
1993年共同通信社入社。大阪社会部、和歌山支局などを経て、カブール、カイロ、ワシントンに駐在。2度目のカイロ在勤後、2022年からバンコク兼ヤンゴン支局長。紛争やテロ、イスラム過激派を取材してきた。

商業ビルやレストランが建ち並ぶアフガニスタン首都カブール中心部=2023年12月(共同)

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