【佐橋佳幸の40曲】鈴木祥子「ステイションワゴン」の背景にあるサウンドの秘密とは?  映画「キッチン」のサントラ盤にも収録、鈴木祥子「ステイション ワゴン」

佐橋佳幸の40曲 vol.10 ステイションワゴン / 鈴木祥子 作詞:川村真澄 作曲:鈴木祥子 編曲:西平彰・佐橋佳幸

シンガーソングライター・鈴木祥子のデビュープロジェクト

プロデューサー / アレンジャーの西平彰もまた、セッションのたびギタリストとして佐橋佳幸を頻繁に起用していたひとり。そんな西平が1988年のある日、佐橋に相談を持ちかけてきた。

「今、新人女性シンガー・ソングライターのプロデュースの仕事をひとつ頼まれているんだけど手伝ってくれないかな、と。というのも、その頃日本でスザンヌ・ヴェガがめちゃ売れててね。で、誰が言い出したのか、とにかくああいう感じでデビューさせたい子がいる… というオファーが西平さんのところにあったんだって」

「もともと西平さんは沢田研二さんのバックバンド、エキゾティクスで活躍していたキーボード奏者。でも、スザンヌ・ヴェガ路線だったら誰かギタリストと一緒にやったほうが面白いんじゃないかと思ったらしい。となると、僕でしょ(笑)。アメリカの女性シンガーソングライター路線は僕にとって大得意なジャンルなわけだし。それで僕に声がかかり、アレンジの段階から共同でやることになったんです」

こうして始まったのがシンガーソングライター、鈴木祥子のデビュープロジェクトだ。その初日、西平と佐橋を含む制作スタッフが一同に会した部屋の隅に、ぽつんと所在なげに座っている女の子がいた。佐橋には見覚えがあった。ちょっと考えて、彼は思い出した。

「あーっ! あの時、ドラム運んでいた子だよね⁉︎」

ドラマーのアシスタントだった女の子

話は1980年代半ば、UGUISS解散直後の時代へと遡る。ある日、佐橋はギタリスト、鈴木賢司のライヴを見に行った。現在はロンドンを拠点に “Kenji Jammer” の名で活躍する鈴木は、UGUISSと同じく1983年にEPIC・ソニーからソロデビュー。その鈴木のサポートバンドにUGUISS解散後の柴田俊文が参加していたのだ。終演後、バックステージを訪ねると、ひとりの若い女の子がドラムの後片付けをしていた。

重い機材をスタジオからスタジオへ、ステージからステージへと運んでは設置し、終わると片付けて… という作業を繰り返すミュージシャンのアシスタントたちは当時、圧倒的に男性が多く、通称 “ボーヤ” と呼ばれていた。とりわけドラマーのアシスタントは重労働。ゆえに、まだ10代にも見える華奢な女の子が忙しく楽器を運んでいる姿は佐橋の目にも印象的だった。

「この時のドラマーは元・一風堂の藤井章司さん。それで藤井さんに “女の子のボーヤなんですか、珍しいですね” って言ったら、“違う。うちのガーヤだよ” って。ガールのボーヤだから“ガーヤ”(笑)。なんと、あの時のガーヤが祥子ちゃんだったんです」

EPIC・ソニーからソロアーティストとしてデビュー

鈴木祥子は高校卒業後、藤井に師事。その後、師匠の “ガーヤ” を経て、原田真二&クライシスにドラマー / パーカッション奏者として参加したのを皮切りに本格的な音楽活動を開始した。1987年には小泉今日子やビートニクス(高橋幸宏+鈴木慶一)のライヴに参加。もともとクラシックピアノ経験者で、ドラムやパーカッションだけでなくキーボードやコーラスもこなす。そのマルチな才能が音楽関係者の目に留まらぬはずがない。ほどなくEPIC・ソニーからソロアーティストとしてデビューすることが決まった。

「ある時祥子ちゃん、“曲を書いたことはないの?” と訊かれたんだって。それまで書いたことなかったんだけど、ちょこちょこと何曲か作って持っていったらみんな “うわーっ” と驚いて。これはデビューさせないわけにはいかないだろうって話になった。だから、まだそんなに曲はたくさんなかったけど、西平さんや僕も曲作りのお手伝いをしながらシンガーソングライターとして育てていこう… みたいな感じで始まったの」

「それで、みんなで西平さんの家に行っては曲作りの作業をするようになった。西平さんのお宅は機材も揃っていて、デモ録りもできる大きな家でね。スタッフもお酒や食べものを持ってやって来て。しょっちゅうやってたな。当時、僕は西平さん宅にギターを1本置きっぱなしにしていたくらい(笑)。そんな環境だから、なんか “みんなで作ってる感” がすごくあった」

まるでその5年後、1993年にシェリル・クロウがリリースしたデビューアルバム『チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ』のよう。このアルバムタイトルは毎週火曜の夜、デビュー前のシェリル・クロウを囲んでミュージシャンやプロデューサーたちが集まっては曲作りやレコーディングに取り組んでいたときの臨時バンド名に由来するのだが…。

「そうそう。まさにそんな感じ。夜な夜な、みんなでワイワイやって。祥子ちゃんは子供の頃アメリカに住んでいたから英語も堪能。だから彼女のデモテープは全部、仮の歌詞が英語。日本語の歌詞は書いたことがなかった。その後の彼女が書くことになる歌詞の素晴らしさを思うと信じられないかもしれないけどね。それで、スタッフが作詞家の川村真澄さんを連れてきて、彼女も西平邸での “ワイワイチーム” に加わって。楽しかった。まだみんな若かったしね。何よりも、そこではみんなが自由に意見を言い合える雰囲気があった」

こうして1988年9月21日、鈴木祥子はシングル「夏はどこへ行った」でデビュー。翌月にはファーストアルバム『VIRIDIAN』もリリースされた。セールス的には成功とは言えなかったが、制作に携わった佐橋は今までにない確かな手応えを感じていた。

あっという間に完成したセカンドアルバム「水の冠」

「この後すぐ、ほぼ半年後にはもうセカンドアルバムの『水の冠』(1989年4月)が出ているんだよね。当時のリリース・ペースが早かったせいでもあるけど、何よりも祥子ちゃんの才能がほとばしってた。彼女はまだ20代半ば。子供の頃にクイーンやキッスが好きでドラムを始めた子が、いきなり “日本のスザンヌ・ヴェガみたいにやれー” と言われて初めて曲を作って、歌い始めて、すぐにデビューだからね。次の『風の扉』(1990年3月)までは祥子ちゃんも僕らもいろいろ試行錯誤しながらやっていたけど。とにかく吸収力がめちゃめちゃ早くてどんどん成長していくから、一緒に作っている僕らもすごく楽しかった」

スザンヌ・ヴェガにとどまらず、海外ではその後の1990年代シンガーソングライター・ブームへとつながる新世代アーティストたちが台頭してきていた時期。そんな動向ともリンクする音楽性が日本でも少しずつ芽吹きつつあった。EPIC・ソニーからは鈴木以外にも遊佐美森、片桐麻美といったアコースティックな手触りのシンガーソングライターたちが続々とデビュー。“女性シンガーソングライターの名門レーベル” としてのEPICのイメージの礎を築いた。

「時代的にはまだニューウェイブ的なものの余韻もあったし。今みたいに若い人がフツウに60年代、70年代の洋楽を聴いてる時代でもなかった。渋谷系前夜くらい? シンガーソングライター的な音楽は、シーン的にちょっと微妙な時期ではあったんだよね。ところがある時、祥子ちゃんにジェイムス・テイラーとキャロル・キングを聴かせたら、“こんな音楽があったんですね!” と衝撃を受けたみたいで。彼女の人生観が変わっちゃった(笑)」

「となると、ここはもうオタクのサハシの出番。次はこれ、次はこれ、こんな新譜も出たよ… と、がんがんCDを貸してあげて(笑)。そこから彼女は、ぐいぐい加速してゆくわけです。だから、その時期のジェイムス・テイラーなんかに関しては、僕よりも祥子ちゃんのほうが詳しいかも。それくらいの勢いでどんどん吸収していっては、そっち方向の曲をがんがん書き始める。もともとアメリカ東海岸のフォークロック的な世界をやらせたかったスタッフたちにしてみると、ある意味、思うツボだったよね(笑)」

セカンドアルバム『水の冠』は鈴木祥子がシンガーソングライターとして覚醒してゆく過程の記録だ。まだ自作曲も少なかったデビュー当時が遠い昔に思えるほどの勢いでどんどん楽曲が仕上がり、仕事の早さでは定評のある佐橋をして “あっという間に完成したアルバム” と言わしめたほどだった。

映画「キッチン」のサウンドトラック盤にも収録

「コンサートチームも宣伝スタッフも含めて、みんなとにかくこういう音楽を何とか世に広めようっていう気概のある人たちばかりで。すごい熱気がありました。この勢いでさらに次へ行くぞ!と3枚目のアルバムを作り始めるわけです。ここから、以前にも話した、(桐島かれん「Traveling Girl」とプログラマー藤井丈司との出会い)後に僕が移籍することになる事務所の社長でもあるシンセサイザー・プログラマーの藤井丈司さんも登場します」

「もともとは “スザンヌ・ヴェガみたいな、そしてギター・オリエンテッドなサウンドを…” ということで僕が呼ばれたわけですけど。この時期には “そろそろスザンヌ・ヴェガじゃなくてもいいんじゃね?” みたいな雰囲気になって(笑)。生にこだわるアメリカン路線も悪くないけど、もうちょっと打ち込みベースのヨーロッパ的なサウンドはどうだろうかと、レコード会社サイドが言い始めた。背景にあったものは何か? そう、エヴリシング・バット・ザ・ガール(以下EBTG)です(笑)」

「まぁ、実際アメリカ音楽に面白いものがちょっと少なくなってきていた時期でもあったしね。それで、西平さんの家での “ワイワイチーム” に藤井さんも参加するようになって。そのチームで作ったのが『風の扉』なんだけど。その前に、シングル曲として「ステイションワゴン」(1989年10月)が出ているんです。アルバムより半年以上早い先行シングルだったから、これは藤井さんの参加前ですね。ある意味、『水の冠』の延長線上に近い曲でもあるのかもしれない」

EPICから発売された映画『キッチン』(1989年)のオリジナル・サウンドトラック盤にも収録されていたこの曲。映画本編では流れることはなかったが、映画の世界観を元に作られたイメージソングだった。

「ステイションワゴン」という “旅感” のある歌詞とマッチした音世界

「僕の記憶では、祥子ちゃんの初タイアップ曲だったはず。ワイワイチーム一同、“がんばろうぜ!” って盛り上がったからね。すでにEBTGというキーワードは出ていたはず。だから、ロバート・パーマーとかスクリッティ・ポリッティみたいな打ち込みサウンドを使いつつ、プリファブ・スプラウトの『ラングレー・パークからの挨拶状』に出てくるのとそっくりな音色のピアノが入ってたり…(笑)」

もともとはジェイムス・テイラーの「シャワー・ザ・ピープル」みたいな曲を書いてほしいという佐橋のリクエストに応えて鈴木が書いた曲。ところが、キーボードで作曲したらしく、ギター中心のジェイムス・テイラーっぽいニュアンスは結局反映されず。そこでレコーディングの際、佐橋がギターで「シャワー・ザ・ピープル」感を付け加えた。ミュージシャンどうしのなんとも楽しいやりとりだ。

「この時期、祥子ちゃんはほとんど自分でドラムを叩いていて。この曲のドラムも本当に素晴らしいです。で、結局 “プリファブ・スプラウトな「シャワー・ザ・ピープル」” みたいにはなったんだけど(笑)。なんかもうひとつ欲しいよねーということになってさ。で、僕の提案で、はちみつぱいの駒沢(裕城)さんのペダル・スチールを入れたわけです。そしたら一気に世界観ができてね。80年代らしいシンセポップ感もあるのに、カントリー風味もある。「ステイションワゴン」という “旅感” のある歌詞とマッチした音の世界が完成したんです」

佐橋が西平彰宅で「ステイションワゴン」のプリプロダクション作業に勤しんでいたとき。雪が降っていた。このまま雪が積もって帰れなくなったら困るな… と、天気予報を見るためテレビをつけると、そこには当時内閣官房長官だった小渕恵三が “平成” という墨書を掲げる映像が…。1989年1月7日。佐橋が西平彰の家でレコーディング作業に打ち込んでいる間に、昭和の世が終わり、平成が始まっていた。

次回【佐橋佳幸の40曲】につづく(1/27掲載予定)

カタリベ: 能地祐子

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