鮎川義介物語⑫日産、満州進出の背景に反財閥

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・昭和12年10月、鮎川義介率いる日本産業の満州進出が発表。

・星野直樹や岸信介「革新官僚」、資本家を抑え統制経済を目指す。

・日産は、株式を公開し資金調達し、旧来の財閥に比べ公共性があった。

昭和12年10月29日、鮎川義介率いる日本産業が満州へ進出することが発表されたのですが、これは、「満州産業開発5カ年計画」です。日本と満州で同時発表でした。これまで秘密裏に交渉が進んでいました。日産内部でも社外重役が知ったのは、発表の前日でした。三井、三菱、住友など情報網のある財閥も、この情報をキャッチできませんでした。

この計画は、石原莞爾らの関東軍や星野直樹や岸信介らのエリート官僚が作り上げました。度肝を抜く、予算が投じられます。25億円。当時の日本の国家予算、24億円に匹敵するものです。20分野の産業を選んで、集中的に開発するものでした。数値目標を設定していました。粗鋼は3倍、鉄鋼製品は3.7倍、石炭は2倍という具合だ。さらに、自動車4000台、航空機も340機も盛り込まれていました。

こうした計画を作った背景は、ソ連の台頭です。ソ連は、5カ年計画をつくり、このころ経済成長していたのです。世界恐慌の際にも、ソ連の伸びが著しかったのです。日本政府は「ソ連に負けじ」と、満州を開発しようとしていたのです。

広田内閣は「満州開拓移民推進計画」を打ち出し、昭和11年から31年までに500万人の日本人の移住させる計画でした。実際に20万人以上が農業に従事するため、移住していました。

そもそも満州国は、日本政府の傀儡国家でした。昭和7年に建国宣言されました。国政を担うトップである執政には、愛新覚羅溥儀が就任していました。映画「ラストエンペラー」の主人公です。満州では、溥儀がトップですが、満州国の実務を運営しているのは、国務院です。

そこに一人の役人がいました。この連載で何度も出ている星野直樹です。総務長官という肩書でした。張景恵国務総理大臣を補佐する立場でしたが、実際には予算や人事をすべて掌握していました。さらに、大きな権力を握っていたのは、関東軍です。参謀長の東条英機が絶大な権限を握っていたのです。

関東軍は、満州国について、満州人、朝鮮人、蒙古人、漢人、そして日本人を合わせた「五族協和」をスローガンにしていました。「搾取なき王道楽土の建設」という理想を掲げて建設されました。旧来型の財閥に対して、ノーをつきつけたようなものです。

満州への投資については、関東軍と星野ら満州国幹部は三井財閥の大番頭の池田成彬など旧来の財閥にも打診していました。しかし、関東軍の中では、反財閥の意見が根強かったのです。三井と立憲政友会、三菱と憲政会。その癒着関係は伝わり、軍部や一般大衆は反発していたのです。テロや労働争議、小作争議が絶えなかったのです。

星野や岸は、「革新官僚」と呼ばれていました。資本家を抑え、統制経済を目指していたのです。

こうした状況下、鮎川はうってつけでした。鮎川率いる日産は、株式を公開して資金調達しています。旧来の財閥に比べ、公共性があったのです。

「日産の株主は5万人以上いるので、日産はより多くの人々に恩恵を与えることができる。旧来の財閥よりは、日産のほうがいい」という考えが支配的となりました。

(⑬につづく。

トップ写真:南満州鉄道本社(20世紀初頭 中国・満州)出典:Culture Club / GettyImages

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