1995年、闇に包まれた神戸 夜明けを、灯りを待ちわびた被災者…ルミナリエの光はどう映った

阪神・淡路大震災発生当夜の神戸・三宮。真ん中に光の全くない空間が広がる。その上に赤い明かりが見えるのは神戸市役所など。奥は大阪の街=1995年1月17日、ビーナスブリッジから

 冬、神戸は「光」の街になる。

 たそがれ時が過ぎて夜のとばりが降り始めると、家々に明かりがともり、電飾の街路樹が行き交う人の心を浮き立たせる。

 そんなのは神戸だけじゃない。どこでも見られる光景だと言われるかもしれない。でもやっぱり、ここで見る光は他とは違う気がする。それはきっと、29年前の「闇」の記憶がこの街に残っているから。

 1995年1月17日午前5時46分。阪神・淡路大震災は、夜明け前の闇から始まった。

 「日の出の太陽があんなに待ち遠しく思えた時間はなかった」

 地震発生から日が昇るまでの1時間余りを、神戸市灘区の40代女性はそう振り返る。震災と光にまつわるエピソードを教えてください-。神戸新聞がアンケートを行ったところ、この女性をはじめ、発生当日の朝のことをつづった回答が複数寄せられた。

 「早く夜が明けてほしいと思いました」「夜が明けるまでが不安だった」「朝が来た!夜が明けた!」

 待ちわびた朝の光。しかしそれは、無残に変わり果てた街の姿をあらわにさせた。闇をはい出し、声を掛け合う住民たち。壊れた家屋に閉じ込められ、隙間から差し込む一筋の光に希望を見た人もいた。

 神戸は夜景が美しい。空気の澄んだ冬はなおのことだ。宝石をちりばめたかのようなきらめきも地震後は戻るまでに時間を要した。地震当夜に山上から撮影された街の写真には、大きな暗黒が広がっている。

 その暗黒と寒さの中で、被災者は火を囲み、身を寄せ合っていた。神戸市東灘区の女性(68)には忘れられない情景がある。

 避難した近くの小学校でのこと。近所の中年男性が校庭でたき火をしてくれた。燃えているのは何本もの太い柱。揺れる炎を見つめ、男性は穏やかに言った。「なんぼでもまきはあるで。家がつぶれたからなあ」

 記録によると、被災地で電力復旧が完了したのは6日後。電球を見上げ、人々は何を思ったか。アンケートの回答にある。

 「街に灯(あか)りが灯(とも)った日の感動を忘れない」「電気が通じた時、どれだけ安心したことか」「余震の中、明かりはとても嬉(うれ)しかった」

 あの年に生まれ、「あかり」と名付けられた赤ん坊もいる。姫路で生まれた記者(28)もそう。テレビ中継で真っ暗になった神戸の街を見て、明かりの尊さを実感したと母は私に教えてくれた。

 第1回の「神戸ルミナリエ」が行われたのは、地震のあった年の12月だった。被災地を明るく照らす催しを-。幾つかの案から「光の祭典」が選ばれた。

 復旧と復興に追われていた被災者にとっては人ごとに映ったのか、始まる前はあまり話題にならなかったらしい。神戸新聞は「夢のひかり ルミナリエ」の見出しで伝えている。華やぎがつらくて、直視できなかったという声も聞いた。

 それでもあの年、多くの来場者が光の中で泣いたという。なぜ? 返ってきた答えはさまざまだった。きれいだった。あったかかった。懐かしかった。まぶしかった。悲しかった…。

 新型コロナウイルス禍を挟んで、4年ぶりの本格開催となるルミナリエが始まった。元日に起きた能登半島地震が阪神・淡路の記憶と重なり、心を痛めたという人も多い。能登の地に寄り添う光であってほしいと願う。

 29年前、闇に包まれた神戸。あの日、あの年に立ち返って、被災地を照らした明かりを見つめたい。(名倉あかり)

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