鮎川義介物語⑬重化学工業切り離せ

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・鮎川義介、重化学工業の発展に広面積で資源豊富な満州に惹かれる。

満洲の資源で欧米から資金調達。外資との共同出資で本格開発。

・南満州鉄道から鉄道以外の重化学工業は切り離された。

「満鉄」から重化学工業を切り離すべき。

日産コンツェルンを率いる鮎川義介は満州に進出することになりましたが、何事もストレートに発言することで知られていました。商工大臣の候補にあがったり、物価対策委員会の委員にもなったりしていました。物価対策委員には官僚や財界などの名士が集まったが、鮎川は言い放っていました。

「この物価対策委員会というのは、物価をあげたいのか、下げたいのか。それとも適当な水準で維持したいのか、全く分からない」。

さらに続けます。

「それにしても、この委員会の委員長は広田弘毅君だが、広田君は外交のひとである。物価対策は経済問題だ。広田君が委員長なのは全く、不適任だ」。

この委員会は騒然となったが、広田自身は「仰る通り私は適任者ではない。適任者を選んでなるべく早く止めたい」。

鮎川のストレートな発言は次第に注目を浴び、人気は高まりました。南満州鉄道の総裁の松岡洋右は同じ山口出身。かねてから親しい間柄です。

鮎川は「満鉄のような国策会社とあろうものが、金が必要だからといって、その場限りの金を借りる。また金がなくなったからといって、また借りに来る。高利貸みたいなところの金を使って国策を遂行できるわけがない」、「さらに満鉄のような巨大企業が市中のお金の融資を受けると、あとの中小企業や民間企業が金を借りにくくなる」と苦言を呈しました。

さて、満鉄というのは、南満州鉄道ですが、もともと日露戦争で勝利したことから、ロシアから譲り受けました。ポーツマス条約に基づいたものです。

その満鉄は、満州では巨大な力を持っていました。運輸業だけでなく、行政権をもっていました。電力、ガス、消防、病院、教育まで展開していたのです。また、鉄鋼、工業などさまざまな重化学工業の企業が傘下となっていました。

満鉄が頂点だったのです。しかし、その地位はぐらつきました。関東軍が満州全土を占領して満州国が建国されたからです。

その満州国が満鉄に代わったのです。そして、満州国が鮎川の力を借りて満州重工業株式会社をつくったのです。

鮎川はもともと、満州には強い関心を抱いていました。満州進出を促す官僚、岸信介に対し、こんな考えを示していました。

重化学工業が発展するには、日本のような国土の狭い国では限界があり、広大な面積で、資源も豊富な満州が魅力的だというのです。

満州なら、アメリカ流の大量生産方式が可能の地だというのです。その手法は、満洲の資源を担保にして、アメリカや欧州から資金を調達する可能だといいます。持ち株会社とその傘下の子会社を設立しておけば、外資と共同出資で、満州を本格開発できるというのです。外資の出資については49%までとすれば、経営の最終判断は、日本となると思っていました。

鮎川は岸にこう主張しました。

南満州鉄道から鉄道以外の重化学工業は切り離すべきだ。そして、日産とともに、設立する満州重工業株式会社の傘下に置くべきだ」。

それはメモにまとめられ、近衛内閣はそれを承認したのです。鮎川の考え通りに、満鉄から、重化学工業は切り離されました。しかし、鮎川にとっては、厳しい状況が起きていました。

(⑭につづく。

トップ写真:長春駅(1945年3月11日 満州)出典:Photo by Fox Photos/Getty Images

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