壬生藩の侍医古川精一は漢方医学の大家だった 町歴史民俗資料館の調査で判明

「西洋医・漢家医雷名鏡」の漢医大家一覧(東京大大学院情報学環所蔵)。小結に古川精一の名が記されている

 【壬生】壬生藩の侍医古川精一(ふるかわせいいち)(1842~84年)が、明治時代に漢方医学の復権を図ろうと活躍した大家だったことがこのほど、町歴史民俗資料館の調査で分かった。医学歴史書をひもとき、当時の名医の一人に名を連ねていたことなどを確認した。

 古川は「浅田飴(あめ)」を考案した漢方医界の第一人者浅田宗伯(あさだそうはく)の高弟で、浅田と共に国内最古の漢方病院を開設した。

 昨年6月に古川の子孫から「先祖の業績を知りたい」と同資料館に問い合わせがあり、同町の医史学に詳しい順天堂大医史学研究室の中野正人(なかのまさと)氏(65)と同資料館の添野祐未(そえのゆみ)学芸員(23)が調査を始めた。

 医学歴史書を調べると、明治時代に全国の名医を番付にした「西洋医・漢家医雷名鏡(らいめいかがみ)」の小結(3席相当)の欄に古川の名前を確認。また、新政府の政策で西洋医学一辺倒になることを恐れた漢方医らが実力者を集め、西洋医との懇親会を開催した際の名簿「漢洋医家懇親会 漢医招待者名簿」にも古川の名前を見つけた。

 調査から、古川が浅田宗伯塾の塾生として漢学や内科の技術を習得し、壬生藩の第7代藩主鳥居忠宝(とりいただとみ)に侍医として登用されたことも分かった。

 中野氏は「維新後に漢方医の大家となる古川を輩出した壬生藩の医療レベルが国内屈指だったことの裏付けになる」と話している。

 同資料館は調査結果の展示などは未定とした上で「幕末の壬生藩は蘭学が優位の立場にあったが、今回の研究で漢方の充実と向上も図っていたことが推察できる」と評価している。

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