鮎川義介物語⑯単身渡米、アメリカの自動車産業の勃興期

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・現場第一主義の鮎川、1905年、鋳物修業のため単身渡米。

・米の産業全体を押し上げていた自動車業界。フォードとGMの競争が激化。

・鮎川、米での実情観察が日産自動車の創業につながる。

そもそも鮎川義介とはどんな人物だったのでしょうか。明治13年、1880年、山口市に生まれました。

鮎川家は名門でした。父は旧長州藩士鮎川家の第10代当主。一方、母は、維新後の志士、井上馨の姪です。井上は総理にはなりませんでしたが、明治の元勲として確固たる地位を築きました。伊藤博文らとともに長州ファイブとして、イギリスに留学した経験もあります。

当時、廃藩置県の後、武士は就職先に困り、全国で多くの“貧乏士族”が現れましたが、鮎川の父も、その一人でした。

鮎川は東京帝国大学工科大学機械科を卒業しました。井上が「エンジニアになれ」といった言葉を、そのまま受け入れたのです。

ここからが鮎川の真骨頂です。経済界に大きな影響力を持つ井上の力を頼りません。就職しようと思えば、どこでも行けたかもしれません。しかし、東京帝国大卒業後、学歴を隠し、日給制の職工になったのです。就職先は芝浦製作所(現東芝)です。とにかく現場第一主義なんです。さらに驚くのは、明治38年、1905年、25歳のことです。

本場で鋳物の修業をしようと思った鮎川は、単身でアメリカにわたったのです。それはちゃんとした留学ではない。労働者に混じった渡米でした。

場所は、ニューヨーク州のバッファロー市郊外のデピューという町。そこにある汽車の連結器をつくる「グルード・カプラー社」の工場で働きました。週給5ドルの見習い工です。アメリカ人の労働者の中に入って、汗を流したのです。

このころ、アメリカでは、自動車産業が産声を上げました。アメリカの自動車王、ヘンリー・フォードは1903年、自動車会社を創設したのです。そして、世界の産業史を塗り替えた商品を出します。T型フォードです。1908年に発売したのですが、瞬く間に、普及しました。ベルトコンベアーによる流れ作業で大量生産を可能にしたのです。生産コストを大幅に引き下げ、低価格を実現した。生産台数は08年に309台でしたが、20年には94万台以上になったのです。

人びとの生活は大きく変わったのです。主婦も自動車を運転し、ガソリンスタンドが社交場となりました。スクールバスの出現で、遠くに住む子供が学校に通えるようになりました。火事になったら、消防自動車が消火活動をしました。

自動車はアメリカの産業全体を押し上げました。全米で消費される鉄の23%、ゴムの75%、板ガラスの77%が自動車向けとなり、自動車の大量生産はほかの産業にも大きな影響を及ぼしたのです。

自動車の出現によって、大きな国土を抱えるアメリカの風景が一変しました。フォードがT型フォードという安価な自動車を提供したのがきっかけでした。

一般大衆は安価なものを求めましたが、金持ちは高級車を求めたのです。ステイタスシンボルとしての車のニーズが高まったのです。これは、T型フォード一本のフォードのポリシーとは真逆です。こうした多様な車を求める消費者の要望に応えたのが、ゼネラル・モーターズ(GM)です。

両社の競争の激化は、アメリカ市場の一層の拡大につながりました。1920年代には全米で実に2000万台の車が出回ったのです。

鮎川はこうしたアメリカの実情を詳しく、観察したのです。それが、日産自動車の創業につながります。

(⑰につづく。

トップ写真:GMの組み立てラインで、エンジンをシャシーに乗せる工程 (1920年代アメリカ)出典:Photo by Fotosearch/Getty Images

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