「せめて遺族に生前のほほ笑みを」犠牲者300人を復元した「おくりびと」は、仕事を投げ打って能登へ向かった ボランティアが示す「覚悟」

東日本大震災の犠牲者の復元に取り組む笹原留似子さん=2011年3月、岩手県釜石市(笹原さん提供)

 1月6日、岩手県北上市に住む納棺師、笹原留似子さんのところに一本の電話が入った。
 「先生ですか?」
 電話をかけてきたのは、あるセミナーの受講生だ。笹原さんは、2011年の東日本大震災で、300人以上の遺体をボランティアで修復した。昨年、実施したセミナーでは、葬儀関係者に遺体の顔色などを手直しする技術や、遺族の気持ちに配慮した対応方法を教えていた。
 この受講生は石川県在住。1月1日の能登半島地震で自分も被災したが、現地の遺体安置所で支援活動に入るという。「手が足りていないんです。どうか来てくれませんか?」
 答えにつまった。「いつかは現地へ」と考えていたが、被災状況からしてまだ早いと感じていた。自営業のため、スケジュールの調整なども必要だ。それでも、「…どうしても入れませんか」と懇請された時、覚悟を決めた。
 それぞれの技術や経験を生かして活動する災害ボランティアは、時に危険と隣り合わせの過酷な現場へ駆け付ける。根底にあるのは「自分を必要としてくれるなら行く」という思い。笹原さんを現地で待っていたのは、思いがけない出会いだった。(共同通信=山口恵)

震災支援を続ける納棺師の笹原留似子さん=2016年撮影

 ▽「自己完結し、二次被害を出さない」
 3日後の9日、車2台に分かれ、仲間と計4人で出発した。同行したのは元消防職員で笹原さんの会社で働く三浦智昭さんらで、みな災害対策の経験や知識は豊富。トランクには、遺体の修復に欠かせない特製のファンデーションといったメイク道具や脱脂綿、テーピングなどをたくさん詰め込んだ。さらに、飲料水や食事など、身の回りのものもすべて持参した。「自己完結し、二次被害を出さない」ためだ。
 近づくにつれ、「今までの災害とは全然違う」と感じた。
 道路は地割れで大きく穴が開き、脱輪の危険と隣り合わせ。あちこちで土砂崩れも起きている。さらに、雪が降れば道路の状態が全く分からなくなり、身動きが取れなくなる。休憩を取りながら慎重に進んだ。
 東日本大震災でも道路の寸断はあったが、「ここまでひどくなかった。半島の地形がこうさせているのか…」
 車は、いたるところが隆起してがたがたになった道を走った。細い迂回路を通り、渋滞を抜け、目的地である石川県珠洲市の遺体安置所に到着したのは、翌日の昼過ぎ。ここは行政から「手つかずだから、入ってほしい」と頼まれていた安置所だ。

支援に向かう道中の土砂崩れ=石川県内、笹原さん提供

 ▽「後悔しないため、手を抜かない」
 安置所を管理する警察官とその場で打ち合わせし、まず運営の基盤となる作業を急いだ。足りないひつぎを一緒に組み立て、遺体のそばに置かれたドライアイスの量を確認する。ドライアイスが足りないと、腐敗が早く進んでしまう。
 遺体の保全や修復に取りかかれたのは、暗くなりかけてから。底冷えする中、お棺の脇に膝をつき、かがみこむような体勢で遺体の出血や体液の流出を止めていく。この処置で腐敗の進行やにおいを防ぐ。災害時は犠牲者の多さから火葬場が混乱し、遺体を火葬場に搬送できる時期が見通しにくくなるためだが、遺族にとっても大きな意味を持つ。さらに、手のぬくもりを犠牲者の顔に伝え、笑いじわを蘇らせた。
 続けるうちに肩や腰はこわばり、疲労で目もかすむ。立て膝で長時間作業をしているため、膝も真っ赤になったが、自分に言い聞かせた。「後で悔いが残らないように、絶対に手を抜かない」
 無心で手を動かしていた時、突然、目の前が明るくなった。
 「これで見えますか」
 安置所にいた警察官たちだった。暗がりの中で遺体と向き合う笹原さんのため、代わる代わるライトやランタンで照らしてくれた。

地震で寸断された石川県輪島市の道路=1月15日

 ▽忘れられない「つぶれた顔」
 笹原さんのそばで作業を手伝った元消防職員の三浦智昭さんは、13年前の光景を思い出していた。
 三浦さんは東日本大震災の津波で義理の両親を失った。だが、消防にとって最優先は生存者の救助。悲しむ間もなく、仕事に打ち込んだ。震災から数週間後、初めて一日だけ休みを取った。行方不明だった義父の捜索に立ち会うためだ。
 住まいがあった場所のがれきの下から遺体が見つかった。苦しみ、もがいているような表情。わずかな面影で義父だと分かった。あの「つぶれた顔」は今も忘れられないという。
 だからこそ、面影やほほえみを取り戻していく笹原さんの作業を前にして、こう思わずにはいられなかった。「あの時、義父も復元してもらえていたら…」慣れ親しんだ顔で最期の時間を過ごせることが、遺族にとってどれほど大切か、痛いほど分かる。
 「あ、ほほ笑んでる」「これならご遺族に顔を見せられる」。最初は遠巻きに見ていた警察官たちも、安心したように声を上げた。一人が、笹原さんに話しかけた。
 「当時、私も東北で支援活動をしたんです」
 「えっ、そうなの?」
 笹原さんは思わず作業の手を止め、相手の顔を見て、こう伝えた。
 「あの時は来てくれて、本当にありがとうございました」
 13年越しに感謝を伝えられたような気がした。悲惨な現場だが、目の前の犠牲者がつないでくれたようにも感じる縁。そのひと言を伝えられたのがうれしくて、頑張るエネルギーが湧いた。

東日本大震災の津波で被害を受けた岩手県陸前高田市=2011年3月

 ▽託した物資、「遺族のために」
 現地はこの日も余震が続いていた。さらに断水や停電もあって思うように作業できなかったが、深夜までかかって遺体の処置を終えた。すぐにでも次の活動場所に向かいたかったが、「危ない」と止められ、車中泊することに。外の気温は氷点下2度。寒さをこえらながら空を見上げると、満天の星空だった。流れ星がいくつも見えた。
 翌日は輪島市の遺体安置所へ。到着すると、遺族の心のケアに当たる「災害死亡者家族支援チーム」DMORT(ディモート)のメンバーが既に活動していた。
 ディモートはアメリカで先行する取り組みだ。日本では、2005年の尼崎JR脱線事故を契機に、研究会が発足。メンバーは医師や看護師らで、2016年の熊本地震などでも活動し、2017年に法人が設立された。笹原さんは心強く感じた。
 さっそく遺体の修復作業に取りかかったが、笹原さんの支援活動はこの日が最終日。帰り道の渋滞や悪天候を考えると、活動時間は残りわずかだったため、止血など、遺体の保全を優先することにした。遺族が希望した場合の顔の着色などを、ディモートに依頼したところ、快諾してもらえた。帰り際、残っていたメイクセットや防水シートをディモートのメンバーらに「使ってください」と託した。岩手の自宅に帰り着いた時、体重は出発前より3キロ落ちていた。

巨大地震を想定した災害訓練に参加した日本DMORTら=2018年1月、神戸市

 ▽本当に必要な訓練とは
 笹原さんは今回、医師や歯科医、葬儀関係者らと立ち上げた安置所や遺族の支援チーム「ジーニーズ」の代表として被災地で支援した。ジーニーズとは、「Grief care for Each person,No limits in any Emergency(どんな緊急事態でもそれぞれの方にそれぞれのグリーフケアを)」の頭文字から取った造語だ。チームとして初の実地活動となった。
 設立のきっかけは、やはり13年前の東日本大震災。当時の安置所には気になる点がいくつもあった。遺族が、「動線」への配慮不足から他人の遺体を目にせざるを得なかったり、行政の「しゃくし定規」な対応に傷ついたりしていた。
 その後、防災訓練の重要性が改めて叫ばれたが、避難所の設営訓練はあっても、遺体安置所に関する訓練は少ない。行政は死者の発生を想定した訓練を積極的に行わない傾向があるという。理由は「住民にとってショックになるから」。
 しかし、実際に被災すればそんなことを言っていられない、と笹原さんは説明する。
 「大災害では、死者が出ることは避けられない。ならば、そうした前提で備えるべきだ。安置所は犠牲者の尊厳を守り、災害後を生きていく家族を支える場所であってほしい」
 東日本大震災を経験したからこそ「多職種のつながり作りや、日ごろからの訓練も必要」と考えられるようになり、それがジーニーズの設立につながった。
 求めがあれば、今後も各地に出向いていきたいという。

 ▽気持ち吐き出して
 取材の最後、13年前の震災を経験した笹原さんに、能登半島地震の被災者に伝えたいことを聞いた。
 「『こんな支援がほしい』と声を上げながら、日々を過ごしてほしい。時間は掛かるけれど、元の暮らしに戻れる日が必ず来ます。もしノートやペンが近くにあるなら、自分の身に起きた事や今の気持ちを日記として書き留めておくことも大切。悲しいことも書いて、できれば最後は明るい話題も書き添えてほしい。つらい経験が、いつか誰かの役に立つこともあるはずだから。生き残ったからこそ、できることがある。『一人じゃないよ』と伝えたいです」

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