60年ぶりの津波警報、沿岸の高台に車殺到「いざとなると、こうなる」避難方法や情報提供、安否確認…課題山積

元日の避難を踏まえ、課題などを整理する豊岡市瀬戸の住民たち=同市瀬戸

 穏やかに迎えられるはずの元日が一変した。1日に最大震度7を観測した能登半島地震で、兵庫県但馬地域に約60年ぶりの津波警報が発表された。命を守る行動が必要だったあの時、住民はどう行動していたのか。発生から間もなく1カ月。さまざまな立場の人たちに「1.1」を振り返ってもらう。

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 1日午後4時22分、防災行政無線やスピーカーなどから、津波警報の発令を伝えるサイレンが鳴り響いた。円山川河口の周辺に約500人が暮らす豊岡市瀬戸では、辺りの様子をうかがおうと、住民たちが続々と屋外に出てきた。

 一帯は住宅地の大部分で津波による浸水被害が想定される。津波避難場所には水族館の「城崎マリンワールド」などがある日和山が指定されるが、主な経路は道1本のみ。住民は車が連なる光景に目を疑った。「観光客の車だけじゃない」

 同市瀬戸では年1回、津波や風水害を想定した避難訓練を行うと、徒歩で逃げる人が大半を占める。この日は帰省してきた家族がいた世帯もあり、車の多さは想定外だった。「いざとなると、こうなっちゃうんだろうな」。瀬戸区長の角金勝彦(64)らは6日夜、自主的に開いた避難の検証会で対応を語り合った。

 今回はマリンワールドがカフェを開放し、徒歩で逃げた人らは暖を取れた。携帯電話は使えたが、車載のテレビは映らず、欲しい情報が得られない。日没で気温はぐっと下がり、避難した住民らは「いつ帰ってええのか」と口にし始めた。午後6時すぎ、1人が帰ったのを境に、避難者は次々と自宅に戻っていった。

 検証会では「津波は時間との勝負。(避難は)他の災害と分けて考えねば」「すぐに警報は解除されず、家に戻るタイミングが難しい」「訓練通りに安否確認できなかった」などと議論が白熱。角金は「広範囲から避難者が集まることを想定した訓練も必要」と感じた。

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 夏に海水浴客でにぎわう同市竹野町。竹野浜自治会会長の與田政則(69)は1月上旬、住民たちの避難状況や課題を全6ページの報告書にまとめた。

 自治会のエリアは約600世帯が住む沿岸部で、津波による浸水が想定される。市は避難者を全市で最大557人と公表したが、與田は「実際には何倍もいたはずだ」との違和感から、津波警報の発表後に住民がどう行動し、どんな課題があったかを市に伝えようと、各区長を通じて住民の声を集めた。

 報告書によると、1日午後4時半ごろ、高台の宿泊施設「休暇村竹野海岸」に約50台が逃げ込み、同5時過ぎには満車になる。1時間後に丘の上にある竹野中学校への坂道に車が並び、高台の墓地に多くの住民が退避した地区もあった。

 市はこの日、避難指示を発令せず、同5時12分に防災行政無線で避難を呼びかけたが、県北部への津波到達予想時刻(同5時)を過ぎていた。

 自治会の聞き取りの中で多くの住民に共通したのが「情報が得にくかった」との課題だ。防災無線が聞こえづらい、避難所の解錠が遅い、トイレがない-。津波避難場所の「B&G海洋センター」には約30台が流入したが、建物に入れなかった。屋外の避難場所の中には、長時間の退避に不向きな所もあり、適否を検討する必要性を痛感した。

 市から避難先への情報提供はなかった。與田は「先の見えない避難が心理的負担になるのは、これまでの災害を見れば明らか。命を守るため、検証すべきことは山積している」と話す。(敬称略)(丸山桃奈)

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