ダウン症の俳優・吉田葵(17) 「『この子は将来、ドラマに出るんだよ』と話しても、絶対に信じないでしょうね」障がいのある子を持った母の葛藤

かわいいもの、かっこいい人が大好きな吉田葵(撮影:加治屋誠)

【前編】ダウン症の俳優・吉田葵(17) 「七実ちゃんが言えなかった」プロのダウン症俳優が生まれた瞬間 より続く

俳優のザック・ゴッツァーゲンはアカデミー賞授賞式でプレゼンターを務め、モデルのマデリン・スチュアートはニューヨークのランウェイを闊歩、ジェイミー・ブルーワーは人気ドラマ『アメリカン・ホラー・ストーリー』の常連キャストに……。

アメリカではダウン症でありながらさまざまな分野で活躍するセレブは多い。そして日本でも、一人の“ダウン症のあるスター”が生まれようとしている。(全3回、中編)

■いつもの葵君は胸を張っている。でも、ドラマでは背中を丸めていた

「葵君らしくなかった」

とは、ドラマを見た「こどもの城児童合唱団」を主宰する吉村温子さんの感想。葵は小学3年生からこの合唱団の中にある、ダウン症などの障がいのある子どもたちのクラス「おんがく大好きミュージックパーク」に所属している。

「いつもの葵君は、ハツラツとしていて、下を向かないで胸を張っている。それはなかなか大変なことなんですよ。でも、ドラマの葵君は背中を丸めていて……」

葵が草太になりきっていた証拠だった。出会ったころから葵の表現力には目を見張るものがあったと吉村さんは続ける。

「葵君は、見学に来たときから、物怖じしないで、ほかの団員に交じって踊りだすような子でした。順応性は高かったですね。私が指揮をしていると、歌を歌いながら、まねをして指揮を始めてしまう。いつしか前に出てきて、客席に向かって自分で表現しながら指揮をやってしまうことも。『私がやるより全然いいじゃない』というものがあった。表現する能力は、ダウン症の人のなかでも優れていると思いますね。だから葵君に指揮を頼みました。30年以上合唱団を率いていますが、指揮を任せられたのは葵君だけ。葵君は誰よりも説得力のある指揮をするから、合唱団の子も誰も文句を言いません」

小学4年生から通い始めたモダンバレエでは、違う才能を光らせている。「平多正於舞踊研究所」代表の平多実千子さんが語る。

「ダウン症の人は、前かがみの姿勢の子が多いのですが、バレエの基礎として背筋が伸びていることが基本。それは口うるさく指導しました。また、バレエでは股関節や背骨の柔軟性が不可欠。体が硬かった葵君は苦労したはず。でも、レッスンごとに体が柔らかくなってブリッジもできるようになり、脚もどんどん開くように。背筋もピッとなったから、自宅でそうとう練習したのでしょう」

障がいがある人を受け入れたことがなかった平多さんだが、葵の努力する姿勢に舌を巻くこともあったという。

「葵君の頑張りが目に見えるから、こちらも指導に力が入ります。練習で失敗すると、葵君はすごく悔しがります。『もう一度やる?』と聞くと、ほかの子は『疲れました』と言うことが多いのですが、葵君だけは『やります!』と。彼の努力と根性に刺激されて、ほかの生徒たちが目の色を変えるくらい」

ダウン症の人は自分と他人を比べないといわれるが、葵はよく悔しがる。自身がダウン症であることを母に告げられたのも、「悔しがった」ことがきっかけだった。

■「悔しい、悔しい」と言う葵に「ダウン症だから筋力が弱いんだよ」と

「葵に、ダウン症であることを告げたのは、彼が小学5年生のとき。当時、徒競走で1位をとりたかったのですが、どうしても勝てずに『悔しい、悔しい』と。そのときに『ダウン症だから筋力が通常より弱いんだよ』と丁寧に説明しました。健常者とダウン症の人の体の違いを伝えると、葵も『筋肉が違うから、オレは速く走れないんだ』と。それでも、1位をとれないのは悔しいと言うから、葵はバレエも踊れるじゃない、指揮だってできるじゃない、駆けっこで1位になれなくても、ほかにも得意なことがあるんだからいいんじゃないの、と言いました」

葵の母、佐知子さんは優しくほほ笑んだ。

現在、特別支援学校高等部2年生の葵は、’07年1月4日に京都市で生まれた。母・佐知子さんと父・和史さん、7歳上の兄・匡志さん(25)の4人家族だ。葵がおなかの中にいるとわかったときは葵祭のころだった。つわりを和らげるために散策した下鴨神社の神紋が葵の葉だったこともあり、生まれてくる子には「葵」と名付けようと考えていた。

出産直後に葵を抱いた佐知子さんには、長男のときとは違う感覚があったという。

「やけに体温が低くて大丈夫なのかなと思いました。病院の先生は今思うとダウン症もネガティブに考えていなかったと思うのですが、葵の顔と耳の形を見て、『ダウン症かもしれないな』と言ってふっといなくなってしまったんです」

葵には心雑音と黄疸があり、NICU(新生児特定集中治療室)のある別の病院に移った。

「ダウン症だとわかったのは出産から1カ月くらいしてから。いろんな特徴をネットで検索して、ほぼ当てはまるから、たぶんダウン症だと。でも、はっきり告知されたときは涙がこぼれてきました。当時は、まさか自分が障がいのある子の親になるなんてと思ったし、障がいのある子どもが生まれたことでお兄ちゃんの育児ができなくなったらどうしよう、自分たちの生活はどうなっちゃうんだろうと……。葵を見ながら、泣いていたときの私に『この子は将来、ドラマに出るんだよ』と話しても、絶対に信じないでしょうね。夫も1回は泣いたと言っていました。でも、せっかくこの世に生まれてきたのだからと覚悟して、ダウン症の子をどのように受け入れていこうかとすぐにシフトできていたようです」

しばらくの間、泣き続けていたという佐知子さん。

「小学1年生だった長男は、私がいつも泣いているのを見て、いったいどんな子が生まれたのかと不安だったでしょう。私が泣き続けていて、お兄ちゃんが『障がいがある人って生まれちゃいけないんだ』と思ってしまっては大変だと思い、長男の前では泣くのをやめました」

佐知子さんが、葵と一緒に歩いていこうと強く思ったのは、彼が7カ月のころ、心臓に穴があいている(心内膜欠損症)ことがわかり、手術を受けたことがきっかけだった。

「あの小さな体に、信じられないくらいの数のコードがつながれて、肋骨を切って手術する。しかも手術中には心臓をいったん止めるというのです。こんな小さな体の子が、こんなに頑張って生きようとしている……、あの姿を見ると、拒否する気持ちはなくなります。『ママのところに生まれてよかった』と思えるような母になろうと心に決めました」

手術は無事成功したが、それでも心臓の僧帽弁に閉塞不全があり、年1回の定期検診を受けること、これから先、何度も入院する可能性があることを医師に告げられた。

「でも、その後は、一度も入院することも、大きな病気をすることもなく、想定外なほど元気に育ってくれて、びっくりです」

【後編】ダウン症の俳優・吉田葵(17) 「はい!アメリカ、行きたいです!!」つぶらな瞳が見据えるのはエンターテインメントの本場 へ続く

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