「極悪刑務所」“囚人野球チーム”米空軍に20-0で圧勝…彼らが抜群の“身体能力”を発揮する背景とは

強豪チームを作り上げたKEIさんとチームメイト。前列左がKEIさん(提供:書籍『アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人 改訂版』より )

映画「HOMIE KEI ~チカーノになった日本人~」や連載中の漫画「チカーノKEI〜米国極悪刑務所を生き抜いた日本人〜」などで知られるKEIさん。

現在はボランティア活動や、ファッションなどのプロデュースを手がけているが、かつては「ヤクザ」として悪の道を突き進んでいた。

その結果、KEIさんは覚醒剤密売の容疑によってFBIのおとり捜査で逮捕され、アメリカの刑務所の中でも凶悪犯罪者が集まる「レベル4」や、終身刑を受けた囚人だらけの「レベル5」の刑務所で計10年以上収監されることになった。

本記事では、KEIさんが実体験したアメリカ極悪刑務所内の文化や出来事などを紹介。連載第2回目は、プリズンの中の人々が、スポーツに熱狂する姿を紹介する。(全5回)。

(#3に続く)

※この記事はKEIさんの書籍『アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人 改訂版』(東京キララ社)より一部抜粋・構成。

プリズンではスポーツも盛ん

プリズンのなかには様々な娯楽もある。テレビルームにも、黒人用やスパニッシュ用、スポーツ番組だけを流す部屋などがあった。映画館もあって、週末には塀の外とまったく同じ新作を無料で観られた。

アメリカンフットボールはプリズン中が熱狂する。スーパーボールのときは、プリズンが休日になってしまうくらいだ。その日は誰も仕事をしなくてよくて、食堂もフリーカフェといってずっと開いている。ハンバーガーにホットドッグ、飲み物もたくさん置いてあってホット・ココアまである。外にはポップコーンの機械まで来て、好きな時間に好きなだけ食べていいのだ。

朝からお巡りも囚人もテレビルームに集まり、2000人全員がポップコーンを食って、何かあると興奮してポップコーンを投げまくるので、床に数センチのポップコーンの層ができる。自分はアメリカンフットボールをあまり好きじゃないから観ないが、あれはすさまじかった。

チカーノもアメフトが大好きで、スーパーボールでは、自分のエリアのチームを応援するのだが、1995年のサンフランシスコ・フォーティーナイナーズとサンディエゴ・チャージャーズの試合のときはヤバかった。赤ギャングのノースと、青ギャングのサウスとのケンカに及んだのだ。

サンフランシスコは赤ギャングが強いエリアで、ロスやサンディエゴなどは青ギャングが強い。ちなみにレイダースは以前、ロサンゼルスが本拠地だったが、いまはオークランドに移った。オークランドはサンフランシスコ寄りなので、このチームにはノースとサウスの両方にファンがいる。

バスケットボールもかなり人気があるが、意外と野球のワールドシリーズはそれほどでもなく、テレビルームに観に来るのはほとんど白人ぐらいだ。

プリズンではテレビ観戦だけでなく、実際のスポーツも盛んだ。自分は野球にサッカーにアメフト、それにハンドボールをよくやった。

ハンドボールとは、日本のみんなが知っているものとは違って、スカッシュやラケットボールに似たスポーツだ。違うのはラケットで打つのではなく、バンダナなどを巻いて手で打つこと。

ボールにも柔らかいのと硬いのがあって、それぞれ打ち方が違うが、硬いボールの場合、指が折れてしまうことがある。でも「痛い」なんて言っていたら「なんだお前、女か? この野郎!」と言われるから、ひたすら我慢して、ゲームが終わると指が腫れ上がっていたりする。

ホーミー(編注:メキシコ系アメリカ人「チカーノ」によるチカーノ・ギャングの構成員の事。KEIさんは組長にあたるビッグ・ホーミーに認められ、ホーミーとして迎えられていた。)はハンドボールが大好きで、週末には大会がある。映画『アメリカン・ミー』にもハンドボールのシーンが出てくるので、興味があったら観てみるといい。

自分は最初のトミノアイランドからずっと、どこの刑務所に移ってもサッカーや野球に打ち込んできた。

ランパークの刑務所には2000人からの囚人がいて、野球チームはA、B、Cと3リーグに分かれて、毎年トーナメントが行われていた。自分が主催するチームはAリーグで優勝を繰り返し、プリズン内では無敵だった。

前列右がKEIさん。自ら主催したチームで監督権選手を務めた。(提供:書籍『アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人 改訂版』より )

一度、アメリカ空軍の野球チームと戦ったこともあるが、そのときは20対0という圧倒的なスコアで勝利した。なんたって囚人たちは、シャバにいる連中とはパワーが違う。毎日ミッチリとウェイト・トレーニングをしている連中だ。金属バットでフルスイングすれば、軽く場外ホームランになってしまう。

自分はキューバやドミニカといった、野球が盛んな国の囚人がやってくると、チームにスカウトすることにしていた。連中は、身体能力は抜群なんだけど、とにかく気分にムラが多い。やる気が出ないときはボロ負けしたりもする。自分は監督兼選手として、彼らラティーノ(編注:ラテンアメリカ諸国にルーツをもつアメリカ人)の負けず嫌いな性格を上手くコントロールしながらリーグ戦を制していった。

看守たちも囚人のプレーに熱狂

年間100試合行われる公式戦は、ギャンブルの対象にもなっていた。この賭けには、囚人もお巡りも一緒に参加する。ビッグマッチの前になると、看守たちが自分のところにやってきて、「なあKEI、明日の試合はどっちに賭ければいい?」なんて平然と聞いてくるから驚く。「明日はお前のチームに賭けたからな!」なんてプレッシャーかけてくるお巡りもいた。

ちなみに、チカーノは球技がまったくダメで、力は人一倍なのにセンスというモノを持ち合わせていない。しかも、試合で負けが込むと、バットを振り回して乱闘になってしまうから困ったものだ。

自分はスポーツは何でも好きだが、アメリカンフットボールはまるで太刀打ちできなかった。身長2メートル、体重200キロの巨漢選手にタックルされて、太ももを骨折したこともある。あのスポーツは、アメリカ人の肉体あってのものだってことを実感した。

自分の刑が確定してアメリカの刑務所に入った1991年から3年くらいの間は、ボクシングのトーナメントも盛んに行われていた。ときにはお巡りと囚人との試合も行われ、その際の観客の興奮はマックスに達した。優勝すればコーラ100本、ナイキのジャージ、そんな豪華賞品がもらえるから、囚人たちの握る拳も熱くなった。

ちなみに、このボクシングトーナメントは1994年あたりで廃止された。殴り合いのスポーツは、やはり試合後に遺恨を残すことになり、けっこうなトラブルを生んだからだ。そもそも、囚人とお巡りがリング上で殴り合うこと自体が、いま考えると異常でもある。

(第3回目に続く)

© 弁護士JP株式会社