<レスリング>【女子68kg級プレーオフ・特集】わずか10秒で変わった人生! 尾﨑野乃香(慶大)が絶望から生還してパリ行きキップを獲得

(文=布施鋼治)

残り時間9秒89からの衝撃の逆転劇-。1月27日、東京・味の素ナショナルトレーニングセンターで行なわれた石井亜海(育英大)と尾﨑野乃香(慶大)による女子68㎏級のパリ・オリンピック代表決定プレーオフは、逆転、再逆転の結果、尾﨑が5-4で競り勝ち、パリ・オリンピックの代表切符をつかんだ。

最後まで予断を許さない展開だった。第1ピリオド、アクティビティ・タイムで1点を先制した尾﨑は、終了間際に得意のがぶりからクルクルと回り込み、片足タックルで2点を追加した。

▲第1ピリオドは尾﨑(上)が3-0とリードして終了=撮影・ホームページスタッフ

続く第2ピリオド、アクティビティ・タイムでようやく1点を返した石井は、尾﨑のがぶりからの片足タックルを2度も回避し、逆転のチャンスを狙う。そして終了間際、場外際の攻撃で2点を返した。これで3-3。このままなら、最後に2点を取った石井の勝利となる。

ここで尾﨑サイドがチャレンジを試みるものの失敗に終わり、スコアは4-3と、石井がさらに1点リードする形になった。

残り時間は4.89秒。5秒を切る残り時間ならば、もう一度試合の流れが引っくり返る可能性はゼロに近かった。案の定、試合後、尾﨑は「あのときは絶望的になってしまった」と振り返る。「やってしまったと思いました。ここで試合は終わってしまうのかな、と」

▲試合終了間際に石井が仕掛け、3-3に追いつく。ラストポイントで有利な状況となったが…

残り時間「9.89秒」に、腹をくくった尾﨑

しかしながら、すぐ気持ちを切り換えることができた。尾﨑のセコンドは『まだ全然いける』という顔をしていたからだ。

尾﨑は現在、平日は神奈川県で栗森幸次郎代表(日体大卒)の「くりもりクラブ」で、週末は山梨・韮崎工業高校で文田敏郎監督に指導を受けている。2人の指導者との息はピッタリ。今回は、セコンドについた彼らとの信頼関係が尾﨑の気持ちをもう一度奮い立たせたのかもしれない。

中断前のロスタイムを計算して残り時間が「9.89秒」に戻ったとき、セコンドからのゲキが耳に届いた。

「今やることだけを、頭においておけ」

尾﨑は「あっ、これはやるしかない」と腹をくくった。「相手が前に出している右足(へのタックル)は、絶対切られると思いました。相手も『絶対来る』と分かっていたはず」

そこで尾﨑は、“トントン”という左右のリズムで右足を狙うふりをして、奥にある左足を取りにいく。これまでの練習の成果がすべて凝縮された動きだった。石井は、前足へのフェイントには反応できたが、後足へのアタックへの対処はできなかった。

▲フェイントを使って石井の左脚をキャッチした尾﨑

自分の必殺技にかけた尾﨑、勝利を引き寄せた

試合後、石井は勝負を左右した残り時間を、涙ながらに「10秒守ったらオリンピックということしか頭になかった」と語った。「取られちゃったので仕方ないな、としか言えないですね。もう終わったことなので…。ちょっと冷静さに欠けていたと思う」

来ると分かっていながら、かかってしまう。それこそ「必殺技」と言うべきものだろう。尾﨑は、いみじくも「私の武器であって、すごく信用していたもの」と表現した。「自分がその技にすごく頼っていた。それで勝てたというのは、自分の技に感謝というしかない」

▲残酷とも思える勝者と敗者のコントラストだが、これも勝負の世界の光景

試合後、応援団や家族ともに逆転勝利に喜ぶ尾﨑とは対照的に、石井は人目もはばからず号泣した。お互い真剣にパリを目指していただけに、かける言葉が見つからなかった。

わずか10秒で人生は変わる。決戦2日後、石井は自らのSNSでつぶやいた。「レスリングは、勝負の世界は、残酷だからこそ美しい。私の試合を見て、そう感じていただけたら救われます」

▲近くのホテルでの“パブリックビューイング”で応援していた慶大OB会。尾﨑の勝利のあと会場へ駆けつけ、祝福した。同部選手としては72年ぶりのオリンピック日本代表

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