元日に最大震度7を観測し、240人が亡くなった能登半島地震。住民のほかに帰省中だった人や観光客など多くの人たちが被災し、各地で避難生活を強いられている。広範囲で発生した断水は解消せず、道路は至る所で寸断されたまま。復興までは長い道のりが予想される。
被災した町の姿は、今どうなっているのか。震源に近く、甚大な被害が出た石川県珠洲市の集落を歩いた。(共同通信=崎勘太郎、坂野一郎)
▽倒壊家屋はほぼ手つかず
どんよりとした曇り空の下、強い浜風が吹き付ける。先月下旬、最初に向かったのは、珠洲市役所から南に約4キロの距離にある宝立町鵜飼。すぐ近くには地元の観光名所「見附島」がある。その形から軍艦島とも呼ばれたが、地震で大きく崩れてしまった。
鵜飼の集落に入り、まず気づいたのが道路のアスファルトが砂で覆われたままになっていることだ。地震による津波が運んだものだ。近くの木には黒い海藻が絡まり、路面の砂には小さな貝殻が混じっていた。
道路に止まったままの車、大きく傾いた電信柱。黒い屋根瓦の住宅が至るところでつぶれていた。砂で汚れた布団、靴、洗濯機などが、むき出しになった住宅の中だけでなく、路上にまで転がり落ちている。市では1日から災害廃棄物の受け入れが始まったばかり。下旬の時点では、町は地震があった時からほぼ手つかずの状態だった。
▽「復旧は待てない」
会社員中島利之さん(40)と出会った。自宅近くに残し、大きな被害を免れた車を取りに来たところだった。
地震発生時、自宅2階にいた。初詣を済ませ、夕飯をどうするかと考えていたときだった。「ベキベキと目の前で家がつぶれていきました。自分もつぶれて死ぬかと思いました。これは尋常じゃないと。パニックでした」。なんとか脱出でき、津波から逃げ惑う近所の高齢女性を背負って高台まで走り、難を逃れた。一緒に暮らしていた母、祖母と、当時帰省中だった弟も無事助かった。
自宅には応急危険度判定で「危険」とされたことを示す赤い紙が貼られている。倒壊した隣の家屋では女性が下敷きになり亡くなった。近くのマンホールは地面から高く突き出たままだった。
「水が使えないのでトイレもできない、洗濯もできない。生活できないです。復旧するまで待てない。僕らの生活は今もずっと続いている。もうここに家を建てることはないですね」と淡々と話した。
▽「全壊のほうが諦めが付く」
宝立町から少し離れた蛸島町の橋本忠雄さん(63)の自宅は、地震の揺れと液状化現象で傾いていた。元日から車中泊や妻の実家などでの避難生活を続ける。この日、人けが少ない被災地を狙った空き巣対策としてエアコンを取り外し、室外機を車に積んでいるところだった。
自宅の中に案内してくれた。畳が浮き上がったり、水平であるはずの梁が斜めに傾いたりしていた。家財道具は散乱し、障子は破れていた。2階の一室には、本棚から飛び出した本が床一面に広がっていた。「全部正月のままや」。こたつの上にはミカンの皮が残っていた。
全壊は免れたが「住める状態じゃない」と判断し自宅は取り壊すことにした。「倒壊してくれたほうが諦めが付く」と苦笑いする。「新しい家を建てたいけど(ローンを)借りられる年齢じゃない。どうしたらいいんかな」と疲れた様子で話した。
▽去るか、とどまるか
「奥能登」と呼ばれる能登半島の最北部の地域では、人口減少や高齢化が長年の課題だった。
珠洲市もその中の一つ。市が公表している資料によると、平成初期に約2万5千人だった人口は、近年は1万3千人前後まで落ち込んだ。総務省が昨年7月に公表した、住民基本台帳に基づく人口動態調査によると、珠洲市の65歳以上の人口は全体の51%を占めた。
元の生活にいつ戻れるのか、復興の見通しは立たず、人口の減少や流出がさらに進むとの懸念も出ている。
一方で住み慣れた土地への愛着や、古里を離れることへの抵抗感を語る住民も多い。飯田町の多間俊太郎さん(73)は、伝統工芸品「珠洲焼」の職人だ。完成品を保管していた倉庫は地震や津波で一部がゆがむなどの被害は出たものの、倒壊は免れた。
多間さんは倉庫の整理をちょうど終えたところだった。「作品はたくさん割れてしまったが、倉庫が残ってほっとした」と話す。これからも珠洲焼を作り続けるつもりという。
近所では小学生時代からの友人が自宅の下敷きとなり亡くなった。「みんなどこかに避難し、誰もいなくなった」。寂しそうにつぶやいた。倉庫の周りもがれきや砂がそのまま残る。
それでも「そのままふさぎ込んどったって(町は)直りはせん」と力強く語る。地元を離れるつもりはない。「なぜ残るのか」とあえて尋ねると、笑顔でこう答えた。「ここが好きやから。人の付き合いが好き。残った人たちで何とかしたいね」