【学法石川高センバツ出場 33年ぶり聖地へ】(4) 「柳沢野球」で全国区に

学法石川高の校内。過去に甲子園に出場した際の記念品の数々が展示されている

 学法石川の33年ぶりとなる選抜高校野球大会(センバツ)出場を知ったファンからは、ある往年の名将をしのぶ声が上がる。学校は1892(明治25)年に県内最古の私学「石川義塾」として開校。1908年創部の野球部も一世紀余りの伝統を持つ。福島県石川町の校内には甲子園に関する多くの記念品が並ぶ。全国に知られる存在となるまでの歩みは柳沢泰典さんとともに始まった。

 横浜市出身。日大を出た1967(昭和42)年、強化を始めた野球部の監督に就いた。部員十数人から出発すると、各地の強豪を訪ねて胸を借りた。練習場や寮を徐々に整えた。

 「野球とは打つことなり」。外野手出身らしく打力重視の攻撃野球を掲げた。熱血指導と猛練習に鍛えられたナインは夏の福島大会では1973年は双葉、翌年は福島商に決勝で敗れて準優勝と一段ずつ階段を昇った。

 1976年春に悲願の初出場を遂げ、夏も聖地の土を踏む。1983年夏は米子東(鳥取)と東山(京都)を破り、16強に進出。2度目の春夏連続となった1991(平成3)年は春に小松島西(徳島)、夏に智弁和歌山から白星を挙げた。

 総監督に退いた後の1999年8月。岡山理大付との初戦を甲子園のスタンドで応援中に倒れ、54歳で急逝する。監督在任30年間で11度の甲子園に導いた存在を失ったこの夏を最後に、学石は夢舞台から遠ざかった。

 「柳沢時代」には、成功を目指す多くの若者が集まった。川越英隆さん(50)=ソフトバンク4軍投手コーチ=もその一人だ。1991年春は主戦として母校のセンバツ初勝利に貢献。同年夏も先発完投で勝ち、監督と抱き合った。

 大学、実業団を経てプロに進み、オリックスやロッテで活躍した右腕は「礼儀やあいさつの大切さを厳しく説かれた」と部史に思いを記す。印象深い師の言葉は「苦の中に光あり」。苦しみが大きいほど、後の喜びは大きい―。現役時代も窮地のたび振り返り、自らを奮い立たせてきた。後輩の快挙を「自分事のようにうれしい」と喜ぶ。

 早春に届いた吉報は部のOBら卒業生だけでなく、球児を見守り続ける石川町民にとっても明るい話題となっている。

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